詩誌「三」76号掲載【詩のトークバトン】
76号トークテーマ:詩を書き始めた時の自分の作品をどう感じるか
正村 「三」の現在のメンバーは全員愛知淑徳大学の梅田卓夫先生による現代詩ゼミの卒業生ですが、当時完成させた卒業制作の詩集を現在自分で読み返してみて、どう感じたか、今の自分の作品と変わったと思うところ、変わらないと思うところ、詩自体に限らなくてもよいので聞いてみたいです。私が「三」に参加したのは確か20号くらいからで、「三」メンバーの、学生の頃に書いていた詩をあまり知らないので、いまとの違いを聞いてみたいなと思いました。
この質問にあたって卒業制作の自分の詩集をすごく久しぶりに読み返しました。読み返さなくてもすぐ思い出せるくらい自分の中で気に入っているものもあれば、すっかり書いたことを忘れてしまっていたものもありました。現在の自分と比べて、特に違いを感じたのは実験的に書いた作品がけっこうあったことです。二行だけの超絶短い詩があったり、行替えと散文を組み合わせていたり。当時は毎週一作品書いて先生やゼミ仲間に意見をもらえたので、色々なことに挑戦しやすかったのでしょう。ありがたいことです。あのころから20年近く経って、自分の言葉の選び方は良くも悪くも大して変わらないなと思いましたが、最近書いたあの詩、この20年前の作品のリメイクみたいになってる…と発見するものもあって、驚きました。私の心にある詩にしたい風景みたいなものは、ずっと変わっていないようです。「もうこのころの感性はないな、書けないな」とは思わなかったことが私としては意外でした。
ではでは、次は、水谷さんお願いします。
水谷 作風、書き方、書く時の気持ち、私もほとんど変わりません。
少し前に学生時代の詩を他の人に見てもらう機会があり、「(若い時に書いたから)子どものような感覚だね」と言ってもらいました。
確かに「この時・この気持ちの時にしか書けなかった」というタイミングのものはあるのですが、私の中の自我はそもそも詩を書く前からだいたいあまり変わっていない、という気持ちです。
今でも「楽しいことってなに?」と聞かれたら芝生の傾斜にごろごろ転がることだと思ってしまうし、4歳の時、自宅のトイレの横の洗面台で手を洗っている時に「あ、ひとっていつか死ぬんだな」とふと感じてこわくなった感覚が今もはっきりしていて、その事の続きを今もさがしています。
会話でのコミュニケーションのとり方は年々図太く図々しくなり、元々人見知りで挨拶もできないおとなしい子だったことなどは今や誰にも信じてもらえませんが……
作品の中の自分は変わらない、変えることが不可能、という思いです。
次は飯塚さんお願いします!
飯塚 前のお二人と同じで、今とそこまで変わらない…と思っていたのですが、実際に読んでみると「これはもう書けないかも」というのが率直なところです(第1号に掲載した作品は「何でだよ!」と思わず笑ってしまいました)。
画家の山口晃さんが、著書で「自転車に乗れるようになると自転車に乗れないという事ができなくなる」という事を書かれていました。知識や技術を知ってしまうとそれを知る前の絵は描けなくなる、そういうニュアンスだったと思います。
自分自身を振り返ると、20代の後半からそれまで全然観なかった映画を嗜むようになりました。その影響で、作品を書く時もそれまでと違ってまず頭の中で映像を思い浮かべ、それを言葉に置き換えるようになった気がします。
昔と今で、心惹かれるものがそこまで大きく変わったとは思いません。しかし、最初から言葉をベースにして書くか、映像をベースにして書くか、その違いが同じものを題材としても、書き方の違いに繋がっているのかと思います。
その変化が、もう書けないという印象に繋がったように感じます。
最後石山さんよろしくお願いします。
石山 卒業制作の詩集、とっても久しぶりに開いてみました。(ちなみに、唐突なオチがついている飯塚くんの一号の作品も気になって読み返しました)
卒業制作の作品は20年くらい前に書いた作品だから、今と違うところは多々ある。当時は、全30編、それなりに気に入った作品を収録したつもりだけど、「これ、今読むとあんまりだな~」という作品が結構あって、自分の作品だから遠慮なく心の中でダメ出ししたり。でも、一生懸命書いたことは知ってるから、何だか愛おしい気持ちにもなりました。
学生の頃の作品より、今書いている作品の方が自分としては好きなので、昔の作品を読むと「もうちょっとここ言葉選びなよ~」「これだけの描写では読む側は何のこっちゃわからないよ~」、とか私は色々思ってしまう。
当時と今と、何が違うのかと考えたけど、今三に残ってるのは卒業後も作品を書き続けてるメンバーで、その人達に読まれる、と考えながら毎号書くし、それを20年続けてきたわけだから、そりゃあ多少なりとも昔より技術は身につくのかな。あと、昔よりも今の方が、柔らかい気持ちで書けているような気もする。当時は書けもしないのに、頑張って背伸びしてた部分がある。
それがいい面に作用すればいいけど、私の場合はあまりいい方に働いてなかったかな? 残念…。
ただ、正村さんと同じで、実験的な作品が少しあって、これは昔だから書けたのかも。うまく言えないけど、何か形にしたい、という作品が何編かあって、中には先生からも評価されたり、卒業時に学校からもらった、卒業制作の佳作を集めたCD-ROMにも掲載された作品もあったり。水谷さんの言うように、どんな作品も、この時・この気持ちの時にしか書けないっていうの
はあるよね。それを思うと、この先も長く書いていけたらいいな。
変わってないのは、好きなテーマが「青春」だということ。学生の頃はそれがあって当然だけど、まさか20年経ってもそれが変わらず好きだとは…。きっとこのテーマはずっと好きで書いていくんじゃないかな。
正村 皆さんのお話を聞いてまず思ったのは、やはり詩の個性というか、その人のポエジーというようなものはきっとそうそう変わらないのだろうということです。もし何か明確に変わったとしたら、きっとまず自分で気付きそうですよね。飯塚さんの言うように、手法や書き方の変化も、それはあくまで切り取り方が変わったということなのかもしれません。
ここまで考えて、この質問、失敗してしまったかしら?なんて思ったりもしたのですが、皆さんの過去の作品への思いをちらりと伺えてよかったです。
水谷さんの死を意識、あるいは知覚した瞬間のお話は、とても頷けるものでした。私にとっての「書きたい風景が変わらない」というのも同じように焼き付いている瞬間があるからだと思います。
飯塚さんのようにインプットをたくさんしている方だから、アウトプットの幅も広いのだろうと感じます。詩の個性は変わらずとも、そこが詩作ののびしろなのかもしれません。私もインプットを怠らず、幅を広げていきたいです…!
石山さんのように、「もっとこうすれば」と思えるのは、過去の作品ときちんと距離を置けて読めているからかな、と思いました。私は「ひょえー」と恥ずかしくなりながら読んでしまったのもあるので…また少し時間を置いて、ときどきは自分の作品を振り返るのもいいなと思いました。