9/21 最近読んだ本
どちらも,買ってから2日経たずに読み終えた(100%)。一冊目に関しては同じところを2度読み返すこともあった。
読書というのは,100%読まないといけない,時系列順で読まないといけないような先入観があるが,実のところ全くそんなことはなく。
なぜかと言われたら,自分が本を読む本質的な目的が実のところ重要であるから。
そういう考えの僕が,一冊目は120%くらい読んだ。それぐらい,仏教ではなく原始仏教の考えは衝撃的だった。
(著者の方の文章のニュアンス的に,明らかに世間一般の宗教的仏教とブッダの原始仏教とを区別したいようであったので強調しておく。実際二冊目で浅く仏教界隈への知識を深めると,その区別の意図に得心する。)
研究そっちのけだが,一冊目を読むと結構マインドが変わり,「自分にとって研究が大事だったのか」「研究がなあなあで終わるとして,それがなんなのか」,その回答に少し自信が持てるようになった。要は執着の一種であった。
というか,僕は学歴社会に欲しがらされてただけで,僕が執着している本質的な頭の良さは別にあると高校生時代から思っていた。であるから,言い訳のようだが,自分が価値を置いていない「経歴」や「功績」みたいなものに執着させられるのはやめようと考えた。
さすがに卒業はしたいが,まぁできなかったらできなかったで,もう少しで見つかりそうな,「本当に興味があること」に専心する機会ではある。
今これを読んでいる。目的としては,冒頭の二冊を読んで,
「もしかして東洋哲学・宗教は西洋のそれとは根本的に異なるものなのでは?」
という仮説が浮かんだから。
根本的に異なるというのは,”起こり・目的”が異なるという意図で書いている。
仮説の検証が楽しいということに気づけたのは,最近のビジコンへの挑戦のおかげであった。
より具体的な仮説としては,東洋において祈り(他者へ救いをもとめるような)はなく,逆に西洋においての祈りとは他者へ救いを求めることなんじゃないか。
また,東洋は合理的・実用ベースで哲学が生まれたのに対して,キリスト教などはどうであるのかを明らかにしたい思いもある。
一応二冊目を読んでいて,そこで紹介されていた思想のうち親鸞の浄土真宗のみが他力本願的ニュアンスで書かれていたのだが,「果たしてこれは他力か?」と思っていて,そこは今後調べていきたい。
察するに,著者の意図的に,著者がそれまで紹介していた哲学と比して浄土真宗に他力的ニュアンスがあるから,「そういう書き方をした方がわかりやすいだろう」と配慮していたのだと僕は今のところ解釈している。
文章の書き方についても学ぶことは多く,一冊目から「しつこいほどに強調すること」,二冊目からは「短文の連続で書くこと」が,わかりやすさにつながると学んだ。
特に一冊目はバイブルである。
「慢」を捨て去ることは容易ではない。僕は中高の頃,一夜漬けで学年上位をとっていた。このこと自体は「慢」の頂にいた僕でも口にはしていない。そんなことを自分から言うやつはたいてい長時間勉強している。そのストレスからの虚勢なのだ。
「みんなもっとしっかりしてないと慢心してしまうのでつがw」
ここまでのマインドだった。
十代で長い時間熟成された悶々とした「慢」を,捨て去るには努力が必要であろうと思う。
でも今,noteで上記の自分語りをするほどに僕は「慢」を捨てきれていないが,「慢心していた」とさらすことぐらいはできる。
自我を捨てることは容易でないが,一見下に下に向かうその方向性のたどり着く先はおそらく最も大局的な視点なのだろうと,二冊を読んで感じた。
おそらく,少なくとも新興宗教以外の宗教は,スピリチュアルではないのではないだろうか。
2500年前から考案されたものが,非実用的な思想だけでここまで受け継がれるわけがない。一方で実用的な思想・方法論だけで「考え」というものがここまで受け継がれるのも,「なんだか,すごいなぁ(小並感)」と思ってしまうのであった。
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