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きっとわかりあえないから。

会話には、情報媒体である自分自身を切り売りする性質を持つ。特に情報共有型の会話では、自身が過去に見聞き感じた事柄を、言語という輪郭を付けて他者に受け渡すことになる。

共有を重ねると、誰に何を話したのか、つまり誰に何を「渡したのか」を忘れてしまう。渡すたびに自分の中に大切にしまっていた”言葉”の引き出しが空になっていく。他者はそんな事情を気にもせずにさらに情報を求めてくる。そして忌々しいことに彼らには渡したうちの僅かな”言葉”しか残らない。

だから、たまには人と交流せず、ひとり静かに”言葉”を飲み込み続け、切り売りし続けて摩耗した自分を取り戻さなければならない。

嫌なのだ。自分が感じた美しさ、一瞬の感動を一生懸命伝えても理解してもらえないことが。怪訝な顔をされる、変わってるねと笑われる、「〇〇らしいね」なんて、抽象的な、理解しているようで全くしていない反応をされる。理解し合えていたと思った人に打ち明けても、そんな態度を取られ、理解の溝が明らかになるのが心に堪えるのだ。

話すたびに、孤独は浮き彫りになる。手を伸ばそうとすればするほど、相手には届かない。伸ばした手のやり場に困り、悲しみとともに胸元に戻す。そんな隔たりを感じたくないから、閉じこもる。1人の時間。裏切りのない自己対話の世界で、静かに自分の中の他者と理解を深め合う。

だから一人旅は好きだ。見知らぬ土地、初めて会う人々、美しい風景。緊張で敏感になった感受性が新しい”言葉”を知覚し、自分を満たしてくれる。過去に蓄積したそれと化学反応を起こし、思わぬ気づきをも生む時間。発見の温かみは、心をじんと温め、失いかけた自分を取り戻してくれる。

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