正義としての利己性
人間誰しも自分は正しいと思っているんじゃないか。私もそのうちの1人。
若い頃なんて最強で、頑張りさえすればどこの帝国の王とでも結婚できると思っていた。
それほど自信があったし我が道を進んでいた。
自分は常に正しく、気に入らないことは本人に聞こえるほどの声で罵った。聞こえた側の気持ちなど考えなかった。好きな人の気持ちは考えたが、嫌いな人の気持ちなど存在しないものとして行動していた。
今思い返すと最低だったと思う。
あの頃私は弱かった。自分を脅かす存在に対して攻撃をしないと安心できなかった。
陰湿な陰口ではなくて本人に真っ直ぐやめてほしいことをやめてほしいと言えば良かった。
コミュニケーションの力も、相手を慮る思考力も、余裕も、何もない人間だった。
相手のことをもっと尊重するべきだったと、思う。
当時の自分を情けなく感じる。だが時間は巻き戻せない。
子供に、どんな行動が正しく、どんな行動が正しく無いか、境界線を教えなければならない場面が多い。
その都度、
なぜ、お友だちにやさしくしなくてはならないのか
なぜ、公共のものを大切にしなくてはならないのか
なぜ、自分のものも大切にしなくてはならないのか
なぜ、ありがとうを述べなくてはならないのか
なぜ、あいさつをするのか
なぜ、なぜ、なぜ
弱くて何ももってなかった私も、一緒に一生懸命に考えなくてはいけない。
何が正しくて、何が正しくないのか。
たくさんの説明を試みてきた中で、最近は一つの説明に帰結するようになった。
世界は繋がっている。
視野を広げると、いわば全ての事象が自分の人生のステークホルダーとも言える。
「自分の行いが回り回って自分に返ってくるから」
だから、自分が良い思いをしたいのなら、周りに優しくしなさい、感謝を述べ挨拶をしなさい、人のものも自分のものも大切にしなさい。
そう説明をすることにした。
一見関係のない人、今だけの関係の人、ただのモノ。
だけど、視野と時間軸を広げて考えると、必ずどこかで自分に繋がっている。
悪いことをすれば必ず仕返しが待っている。
良いことをすれば誰かが必ず見てくれている。
風がふけば桶屋が儲かる程度の屁理屈かもしれないが、私にはどうしても屁理屈とは思えない。
また、子供にとっては、「自分に返ってくる」その意味がわからないかもしれない。
それに、「自分のために人に優しくするという捉え方は美しくない」という意見もあるかもしれない。
だが私は結局のところ、プレゼントだろうと感謝の言葉であろうと、挨拶だろうと、なんだろうと、
結局のところ全て自分のためやることだと思うのだ。
逆にそうじゃないなら気持ち悪いとまで感じてしまう。(あなたのために言ってるのよ、やってるのよ、と、本気で思い込んでいる親のような気持ち悪さを感じる。)
私は子供に色々と言って聞かせるが、子供が幸せな人生を送れるために(もちろん、願ってはいるが)言っているのではなく、子供が幸せな人生だと(私が)思えない人生を歩むことになった時に、
自分のことを許せなくなりたくないから、最善を尽くした教育やしつけをしているのだと心底感じる。
私にとっての免責事項なのだ。
口に出してみるとひどく格好が悪く感じる。
しかし、自分が利己的であることを認識することは、自分の行動に責任を持つことでもあると思う。
あなたのためになんて、嘘だ。
あなたに責任を押し付けてしまっている。
そして大抵の場合、あなたのためにとされたことほど素直に感謝できなかったりするものだ。
利己的であることを認識した上で人生のステークホルダーのマネジメントを真面目にする。
それが責任のある大人のように思える。
正しい、とは、つまり何か。
広い視野で、長い時間軸でステークホルダーを認識した上で、真に利己的であろうとすることなのではないだろうか。
あの人は関係ない、この問題は自分には関係ない、この物は自分のではない、と、思うからこそ乱雑に扱ったりするわけだ。
だが実際のはそんなことなく、関係ないと思った人やものは、遠くとも、時差があれども、みな人生のステークホルダーなのだ。
そう考えれば、あの人にもこの人にも、少なくともそこそこには優しくしておこう、悪いようにはしないでおこう、そう思えるんじゃないか?
今のところこの考え方は、社会のもっと難しい問題を考える時にも適用できると思っている。
人の抱えている最も深刻な社会問題の多くは短期的成果を求め、長期的影響や広義のステークホルダーを無視した結果引き起こされている。
環境問題、人権問題、戦争、格差、少子化、犯罪…いずれも、狭義的に短期的に自分さえ良ければ良い、という考え方により引き起こされた現象だ、と思う。
関係ないと思っていた問題も、最後は自分の身に降りかかってくるのだ。
(もし降りかかってきていることに気づけないほど能天気なら、それはすごく、ラッキーかもしれない。)
問題への解は単純ではないだろうが、解に辿り着くまでに、より多くの人が広義の、そして長期的視点での真の利己性を身につけることで、より建設的な話がしやすくなるのではないだろうか。
視野を広く持とう。
長期の時間軸で考えよう。
そして常にその余裕を持てるように、自分で満足できる自分でいるために、頑張ろうと思う。
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