甘えと妥協のしきい値
本当に色々な人がいると思う。
自分に厳しい人
他人にも厳しい人
自分に甘い人
他人にも甘い人
色々な人と関わって生きていく中で、どうしてこんなに色々なタイプの人がいるのか、不思議に思ったものだが、自分自身と向き合う中で少しずつ紐解けてきたような気がする。
他人への甘えと自分の許し方についての今の感じ方を記録しておこうと思う。
SNS時代になって、人生の悩みは人それぞれだけど、同じような悩みをもつ人が思っているより沢山いて、一人じゃないんだと安心したりもしている。それぞれが思っていることを整理しながら書き出して、小さくても一歩ずつ前進していく作業に意味があると思いたい。
私はどちらかというと自分に厳しくなりがちだ。完璧主義なのだ。完璧、なのではなくて、完璧主義。〜でなくてはならない思想の塊だ。
当然ながら完璧なんて程遠いしありえないから、現実と理想のギャップの中で、ほとんどの自分の行動がが自分の中で「不合格」判定になってしまう。
だめだ、これではだめだ。無意識のうちに自分で自分を責め立てている。
あまりに四六時中自分に対して不満な感情を向け続けるものだからすっかり疲れてしまい、結果的に、これ以上責められたく無いから他人には攻撃されないように、自分を守るために、他人に攻撃的になってしまったりする。
他人からしてみたら迷惑な話だ。
何もしていないのに、攻撃される相手なんて、好んで関わる人の方が少ないだろう。
たまたまコミュニケーションを頑張ってくれる人が「大丈夫だよ、よくやってる、あなたは素晴らしい」と、褒めてくれることがあったとしても、真っ当に受け取らないのだから面倒なことこの上ない。
何度か通ったカウンセラーの方にも、なぜそんなに自分に厳しくするのか?と、聞かれて、自分でもわからなかった。
「なんで、そこまで?」を繰り返すうちに、少しずつ紐の先端が見えてきた。
気づいたことは二つある。
1つめ。私は、自分にものすごく期待をしていた。
本当はこんなもんじゃなくて、もっとすごいはずだ!と思っていた、ということ。
2つめ。私はこんなにも自分に厳しい基準を設けて頑張っているんだから、攻めないで…!と無意識に防御していた。
そうか。そうだったのか。私は自分で自分の考え方を縛り上げていたようだ。結び目に繋がる紐の先端を見つけたような気分だった。
きづいた二つの無意識の思い込み。これは、後生大切に持っていて何か得をすることだろうか…?(私は結構はっきりと自分にとっての損得を勘定する人間だ)
次のカウンセリングまでの間に考えて見たのだが、どうも得をするような気がしない。よくないことばかり起きそうだ、というか、実際やりづらいことばかりで、2つの思い込みによってえられている物はこれまでほとんどなさそうだった。
私は、幸せになりたい。目一杯人生を楽しみたい。やりたいと思ったことをやれるような能力を手に入れたい。葬式では楽しい人だった、好きなようにいきた人だったと言われたい。
私の脳は思い浮かぶ人生の目的を達成するために無意識の思い込みを持っているべきか手放すベキかを判断しようとしていた。
次のカウンセリングの時にははっきりと答えが出ていた。
今まで大事に持っていた無意識の思い込みは私に何の利益ももたらさない。
私はしょせん、わたし。それ以上でもそれ以下でもない。
その事実を受け入れなければ、地図の現在地がわからないときのように、周りを取り巻く環境や情報を歪みなく吸収することが難しくなる。
むしろ人生を思う存分楽しみたい私の目的を邪魔する要因にしかならない。
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長い間、私は許しの判断を他人に任せていた気がする。人の顔色が気になって仕方がない。
表情やしぐさに不機嫌が表れているように見える。
怖い。
自分で自分を認められないから、他人にいくら褒められたり励まされたたりしたところで、すべてをマイナスに解釈する能力はもはや一種の才能ではないかと思うほどに頑固に居座っていた。許してほしい。攻めないでほしい。
自分で認められないので他人に承認を求めるが、承認されたところで自分の腑に落ちないので、永遠に欲求は満たされない。
大元の原因をずっと探っていたのだが、ある時ふと自分がHSPであることに気づいてからまさにそれが全ての生きにくさの原因だと理解できた時がきた。
自分は感覚が普通よりやや鋭くて、刺激を感じ取りやすい。
これまで自分はここに居てはいけないのではないかとか、人よりストレスを受けやすくて、疲れやすい、痛みを感じやすい、体調を壊しやすい、休みがちだったり、集中が途切れやすかったり、考えがまとまらないからろくな発言もできず、頭が悪いのかとコンプレックスを持ってみたり。
全部刺激を感じ取りやすいことによるものなのだと考えてみたら、ずっと喉にひっかかっていた大きな骨が取れたように、すっ、と納得がいった。
もしかしたら、今まで感じてきたことも、受け取り方次第で実は思っているより怖くないのかもしれない。
不機嫌そうだ、怖いと思っていた相手の表情、しぐさ、声色、顔色。
全部私の勘違いであったかもしれないのだ。
というか、もし万が一それが当たっていたとしても、そこまで気にする必要がなかったのだ。
そもそも、嫌われることはそんなにいけないことなのだろうか?そもそも、関わる人全員に好かれることなんて無理じゃないか?
嫌われてもいいや、と思うことにして、言いたいことを言ったところで大したことは起きない。
むしろ、全員に好かれようとして八方美人になる方が自分の軸を持っていない人間として軽視されそうではないか?なぜこんなことに今まで気づかなかったのだろう?
職場でも趣味でも、ここにいてはいけない、自分はここにはふさわしくないという感覚をずっと感じていたのだが、冷静に考えたらそんなわけはない。思い切って言いたいことをいってみよう。
そうか、ダイバーシティとか心理的安全性って、周りが用意するだけではなくて、自分でも切り開けるものなのか。誰かが綺麗にならしてくれた歩きやすい芝生の上じゃなくて自分でブルドーザーか何かで自分の歩きやすい道を作っていけばいいのだ。
急に目の前がひらけて、見えなかった道が見えたような気がした。
私はずっと、人に甘えていたのかもしれない。
満足するわけがないのに、許しの基準を他人にゆだね、不満がちな人生を送っていたように思う。
許しの基準を他人ではなく自分で決めよう。完璧ではない自分を許そう。私は私なりに頑張っている。そもそも人間は都会で24時間365日ストレスに揉まれながら忙しなく不健康な生活を生き抜けるようにデザインされていない。自分の体と心にもっと耳をすまそう。何が必要で何をしたいのか、自分で決める力があるということを思い出すようにしよう。
人に甘えるのではなく、自分で責任を持って妥協しよう。それで良いのだと認める勇気が私には足りなかっただけなのかもしれない。
自由であることは責任を持つことではあるが、自分の人生の責任を自分で持てば、私はいつでもどこでも、初めから自由だったのだ。
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