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好きの意味

しばらくぶりに大好きな映画を見た。

なんでそんなに好きなのか真面目に考えたことがなかったけれど、ふと不思議に思ったので書き出してみる。
好きな映画は二本あってそのうちの一本がプラダを着た悪魔。自分が20代の時に見て、アンディのかわいさと服のセンスの良さに惚れ込みこれまでに何度も何度もリピートしている。

ミランダの無理な要求を徐々にこなせるようになっていくアンディの能力の高さ。
抜群のセンスの洋服たち。
ミランダにコントロールされているように見えて、最後は自分が選択して来たことだと気づくシナリオ。
「自分が選択しているのだ」だという欧米的な価値観の発見。
彼氏との絶妙な距離感の変化の表現。
アンディのちょっと知的な将来の夢。
出てくるキャラクターや場面の本物感とキャラの強さ。

好きなところをあげればキリがない。

以前、好きの定義は「興味がある。もっと知りたい」であるという話を聞いたことがある。(八木甚平さん)
確かに、そんな気がする。
ギャップで惚れるとかもそういった類の感情に思える。

聞いていて、はじめは英語がほとんど聞き取れなかった。
何十回もみるうちに、少しずつ何をいっているのかわかるようになってきた。
そのうちセリフのタイミングまで覚えちゃったりして。
知らない単語が出てくるとわからないままになっていた。
英語で仕事をするようになってから語彙が増えて、改めて見たら「こういってたのかー!」と、ついに理解できたことに感動さえしてしまったりして。

服も、どうして公開から20年経った今もおしゃれに見えるのかがわからない。

わからないことが残っているから面白い。飽きない。
全部がわかったと思った瞬間に、もう過去のモノになってしまう気がする。
何度見ても新しい発見があって、そのままでいいと思う。

でも、新しい発見がなかったとしても、好きなものは好きなんだと思うのだ。

自分の感情を分解していく時に、最後は「快」か「不快(あるいは恐怖)」のどちらかにちゃんと行き着く。大体の場合その過程で感情の理由をこじつけたりして記憶に残していくが、そのこじつけが本当なのかどうかわからないから、自己理解は難しい。
みると快の情動を与えてくれるからと言ってしまうのも脳直すぎて表現できていないように思う。

画面が綺麗。NYの空気感が味わえる。服が可愛い。
製作陣のノリノリの雰囲気が伝わってくる。
でもそれだけじゃない。

しっくりする説明がなかなか難しい。
もしかしたら、わからないことが残っているだけじゃなく、どこが好きなのかさえもわからないから、興味が続くのかもしれない。
どこが好きでどこが好きじゃない、という言語化に全然辿り着けないことが、好きでいさせてくれる理由なのかもしれない。
感覚で「好き」と思っておくことに言語化は必要ないのかもしれない。

船を編むにも出て来た表現だが、言語とは境界だ。
好きという感覚を境界で形作ろうとすること自体が適さないということなのか。

あるいは単に言葉に分解できる解像度と表現力がないだけか…

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