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余白をじっと見つめたら

西洋絵画をみると、画面びっちりにモチーフが書き込まれていて本当に忙しいなと思う。(もちろん美術的価値を否定する気は全くない。)
空気を物質としては絶対に認めないというほどの意地さえ感じる。
西洋画が描かれた場所が全て涼しくて気持ちの良い、匂いの少ないカラッとした気候だったのではなかろうかと勘違いしてしまいそうになるほどだ。
もしかしたら私が海外の匂いをほとんど知らないからなのかも知れないが。

対して日本画をみると、余白が多い。一枚の絵に実質描かれているのが猿と虫一匹だけだったりする。

庭にしても部屋の中にしても、(本当にただの個人的感覚で、感想だけれども)西洋文化の中には日本のそれと比べて余白が少ないように感じる。

私は余白が大好きだ。
その理由と、大人になってから余白に対する考え方が変わってきたこともあって、余白について感じるところを記録しておこうと思う。

日本画の余白

日本画の余白は空気だ。

動植物の生命力
人物同士の関係性
楽しげな会話
雨が降る直前の湿度
雨上がりの草と土の匂い
暑さ、寒さ、涼しさ、風、
油断、緊張

あらゆるものが余白の中から伝わってくる。
そもそも余白に見える部分にはしっかり(二百色あると言われている白で)色が塗りこんであったりして、全然余白じゃなかったりすることもある。

雨が降っている時の室内の湿度や温度感は雨をかかなくても表現できるところに感動するし、思いを馳せることができる。

雨の音は本当に落ち着く。

絵ではないが、日本の建築も調度品が少なかったりして、「何もない」「がらんとしている」と表現されることもあるけれど、よくみると梁や柱や襖などで区切られた壁の構図は忙しく複雑だったりするし、そこに日光や灯火の光や影やゆらめきが加わるので、実はものすごく情報量の多い空間だったりする。

目に見えない、意識していないものを感じ取らせてくれる日本文化の余白が好きだ。

空間の余白

家の中でも街の中でも余白がある方がいい。

人間何故か、空いている空間をみると何かものを置いたり建てたりしたくなるようなのだが、絶対に余白がある方がいい。
(ゴミ拾いのボランティアなどをするとわかるのだが、人間は本当に、空間をもので埋めるのが大好きだ。リスのように隠したい習性なのか、単に後ろめたいからなのかわからないが、街ではちょうどいいサイズの穴という穴に缶やペットボトルが詰め込まれている。とても興味深い。)

余白は、自由の象徴だ。「これ何にしよう」と、右脳を働かせることができる。
何かで埋め尽くされていると、そこから自由な発想には到らないが、何もなさそうに見える空間は、無いように見えて在るものが見えてくるし、実際在るものを持ってきて自由に置いたり組み合わせることができる。

誰かが余白を完全に買い切って、使い切ってしまったのが、今の東京だ。

余白は、守らなくてはならないと思う。

文章の余白

日本語には「行間を読む」という素敵な文化が在る。
俳句でも大いに活用されていて、非常に少ない言葉から関連する周囲の情報を想像させることができる。

風がふく、とわざわざ言わなくても、吹かない風はないので、「風」だけで良いという夏目先生の解説がとても勉強になったのを覚えている。

小説でもなんでも、行間で私たちは想像し、共感し、感情をかみしめ味わう。それこそが楽しい時間だ。
物語の中に明記されていない背景を想像して勝手に創作する活動も日本では非常に盛んであることは言うまでもない。

時間の余白

時間にも余白があった方が良い。
もう少し若いときは、「時間を無駄にしてはいけない」という資本主義経済のおきまりの文句に唆されて、マルチタスクしたり、空いた時間で何かを勉強しようとしたり、全てを埋め尽くそうとしていた。
仕事にもプライベートにも追われて、忙しいのが普通だったし、それで安心しているところもあった。(不安を煽って安心させるためのサービスを有料で提供するのはよく使われる手法だ)

しかし、意識的に「インプット」「アウトプット」と分類できるような時間は結局のところ、大した情報量を扱えないし、混乱するし、要は無意識に任せることによる脳内の情報の整理が進まない。良い情報同士が脳内で繋がらなかったりする。(無意識にぼーっとしているときに脳内の情報整理がされている、という説は実際そうなんじゃないかと私は思っている。科学的に立証されているのか調べれていない。)

時間に余裕ができると、「何しよう」と考え始める。
私の場合、お昼寝するもよし、最近は部屋の余白を作るために捨て活を進めているのでそれに精を出すもよし、料理をするもよし、遊ぶもよし、お金に余裕があれば買い物に思いを馳せるもよし。(考えればお金も余白みたいなものか。自由に処分できるものだから)

この「何しよう」の時間は、自分と向き合う時間だ。自分が何をすると楽しいと感じて、何に人生を使いたいと思っているのかを考える。
本当に自由な時間ができないと、こういうことにきちんと向き合って考えることはしない。

キャリアアップとか本当は仕事でどんなことがしたいとかいう切り口から自己分析をする機会は多くあると思うが、その類ではなくて、「自分の今したいこと」を考える。
生き物として自分が何をしたいと思っているのか、体の感覚に耳を傾け神経を集中する時間は、生きていく上で必要な能力を育てる時間だと最近強く感じる。

紙の余白

何を隠そう、紙の余白が一番好きだ。

真っ白で上質な紙に、ペリカンの万年筆で何を書こう、と考える時間、書き始める直前までの、あの時間が一番好きだったりする。

結局のところ大したことのない日記の一文字目を書いて白紙は白紙ではなくなってしまうのだが。。。

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