「わたし」がわたしである条件
先日、ダイバーシティについての話を聞く機会がありました。
車椅子の方のお話しを1時間ほど聞かせていただきました。その方が、事故にあってから、半身不随の障害を負って、それでも自分は自分として生きていく、という意思にどりつくまでの経緯を丁寧にお話ししてくださいました。
お話しの中に、人生はゲームである、というフレーズが出てきて、私にとって新しい捉え方だったので紹介したいと思います。
その方は、ある日家族で遊びに出た時に事故にあってしまい、(転ぶとかぶつけるとか、そういった事故でした)車椅子の生活になって、一年半の努力も虚しく、半身不随の状態が「完治」であると告げられた時に、自分が非常に不完全なものになった気がしたと言っていました。
歩いたり、走ったり泳いだり、体を動かすのが大好きだったその方は、これまでできていたことが何もできなくなってしまって、事故にあった日のことを「私が死んだ日」と呼んでいたそうです。
想像するだけで心が締めつけられる気がします。
その方は、しばらくはかなりつらい気持ちの中で過ごしていたのですが、ある日妹さんに、「死んだ日じゃなくて生まれ変わった日じゃない?」と、言われたことをきっかけに、人生で何が起きているのかを深く考えるようになったそうです。
これまでの人生で起きた出来事や自分の感じ方を長い長い年表にして、ポストイットで貼り付けて、分類して、考えてみたそうです。
その時に、はっと気づいたことが
「人生はゲームだ」
ということだったそうです。
ゲームとは、ルールを人工的に決めて、それに従って勝ち負けを争ったりする側面があります。(もちろん、最近のゲームは勝ち負けだけではありませんが。)ルールが人工的に決められているということがポイントでした。
人生は、これまで過ごしてきた中で積み上げてきた自分の中の「ルール」に従って泣き笑いしてきたものだったと気づいたそうです。
歩ける自分が「完全な自分」、泳げる自分が「勝っている」自分、そういった無意識の思い込みが自分を苦しめていることに気づいたそうです。
言われてみれば確かにそうです。
私たちは、こういった状況を良い、これは悪いと、たくさんの判断や評価を、これまでの経験をもとに下して、行動をしていきます。
積み上げた経験は脳が効率的に判断を下すために使われる情報ですから、当然のことです。
でも、もしある時突然これまでどおりでは人生ゲームに絶対に勝てなくなってしまったら?
ルールを変えてしまえば良いということなのですね。
思い込んでいるルールというのは、人から繰り返し言われたり、傷ついたり、感動したり、いろいろな経験が重なって作り上げられてきたものだと思います。
でも、もし必要な時がきたら、まっさらな自分になって、自分でルールを作り直せる人生を、その考え方を、私も常に持っていたい、とお話しを聞いて深く思ったのでした。
もし、明日体の一部がなくなったら。もし今まで機能していた何かが機能しなくなったら。
どこまでいっても私は私でいられるのでしょうか?
どこまでいっても私が私でいられるように、柔軟な心で生きていきたいと思いました。
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