「自分でできる」という種類の喜びがある、ということを思い出した
1歳のわが子。最近なんでも自分でやりたがる。
今朝もみかんを私が剥こうとしたところ
「ぶんで!(じぶんでやる!)」
と言ってみかんをつかみ、小さい指をぐしぐし皮に食い込ませ、
みかんジュースまみれになりながらみかんを食べていた。
夕ご飯のカレーも、親としては汚れが気になるので
スプーンに乗せて口まで運んであげたいのだけれど、
彼は自分でやりたいらしい。
「ぶんで、ぶんで。」
と言ってスプーンを離さない。
覚悟を決めてスプーンを預け、横目で見守る。
小さな手でスプーンをつかみ、案外上手にカレーを運ぶ。
しかし、目論見の3分の1ほどしか口に入らず、残りはエプロンへイン。
それでも一向にかまわないようで、マイペースにカレーを食べていく。
カレーが少ししか口に入らなくても、みかんジュースまみれになっても、
彼は今、自分でごはんを食べることが楽しいようだ。
その姿を見て、
「ああ、自分でできることが嬉しい
そういう種類の喜びが確かに私にもあったな」
と思い出した。
私は田舎の一人っ子で、少々過保護気味に育てられた。
学校や習い事へ行くときも、車で送ってもらっていたし、
毎食祖母や母の作るごはんが当たり前のように出てきた。
大学入学を機に上京し、一人暮らしを始めた。
その解放感たるや……!
一人暮らしは大変だって?聞いてた話と全然違うぞ。
明日の朝ごはんは何を食べようか?
今日はいつどこへ出かけようか?
何にお金をかけて、何を節約しようか?
家事をどういうタイミングでやろうか?
生活にまつわるすべてを自分で舵取りできることが楽しくて嬉しかった。
自分で自分の生活をコントロールできる、というのは喜びだったな、と思い出した。
今は4人家族になり、タスクも制約も増えた。
保育園のお迎え時間だとか、
ごはんはキッズに栄養を取らせることを考慮したい、だとか。
時には栄養とか横に置いておいて「ラーメン食べたい~」と思うし、
「も~トイレ掃除やだ~」と思うし、
献立を考える気力もないときだってある。
保育園のお迎えだって時間に追われていつもチャリで爆走している。
だけど、そう、喜びだったなあ。
自分で舵取りできるのは喜びだった、と思い出して
ちょっとだけ、毎日のいろいろが再び鮮やかになってきた。
制約があっても、その中で私の好きにできる。私の力を発揮できる。
なんならその制約だって、私の頭が作っていたりする。
さて。明日の朝ごはんはなにを食べようか?
自分で舵取りしてるイメージで暮らしていけば、
もう少し、暮らしを楽しくできそうだ。