だから言ってっしょ「大学多過ぎ」って

今、日本の「高等教育」が正念場を迎えていることは、皆様もお気付きであろう。こうした事態に対し、大学に属する研究者たちが叫びを上げる。これは日本の将来に於ける危機である、と。

石原先生のおっしゃることはもっともだ。まず行政・官僚・財界のトライアングルの中には、石原先生のおっしゃるような「本来の高等教育」を広く学生に対して提供する場を、まやかしのグローバリゼーションで奪われることの愚かさを嘆いている人間はおらんだろう。だがそれ以前に、日本の高等教育は結構な段階で破綻していた、と言うのが私の感想だ。その出発点は、かなり昔に遡る。そうだ。

GHQ/SCAPによる学制改革だ。

そんな極端な、と言われるかも知れないが、それまでの能力別——ここで言う能力は学力だけではなく、家庭の財力も含まれる——複線型教育を改め、いわゆる「6・3・3・4制」と言う単線型教育に概ね再編し、小・中学校の九年間を義務教育として、基本的には中等教育までの橋渡しは必ず実施されるものとする、と言う「教育機会の均等」は、戦後レジームを代表する平等的政策の一環であり、これが本質的には「占領政策」であったと言う点について目を瞑ってしまう人は多いのだけども。

そんなわけで、気が付けば後期中等教育であるべき高等学校は全入が原則になり、「15の春を泣かすな」と言ういかにも良いことを言ってる風なテーマによって生徒の自主的な進路選択を妨げると言う、公教育の破壊的断絶が起きた80年代・90年代を経て、いよいよ少子高齢化真っ只中、再生不能の縮小再生産に落ち込み始めた日本の中で、教育と言うものがまったく構造改革されようとしなかったと言うのは、首を傾げるよりないのだ。いまさら日教組など大したプレゼンスも持ってなかろうに。

別に貧乏人が高校や大学に行くな、と言いたいわけじゃない。馬鹿野郎、俺ん家だって母子家庭で貧乏……ではなかったな別に、まぁ普通の家だったけどもよ。アンタたち母子家庭って言うだけで色眼鏡で見るくせに、そういうところは平等主義なんだよね、あーなんか腹立ってくるわ。って、そうじゃない、問題はそこじゃない。

高等教育は義務教育ではない

と言いたいのだ。もっと言えば、高等教育を必要としている学生以外に、リベラル・アーツや高等教育を押し付けても、連中は卒業した瞬間にすべてを投げ捨ててしまうんですよ。身に付いてないの、現実問題として。石原先生のゼミ生のように意欲が有って優秀な学生さんばかりが大学生じゃないの。さらに言えば、世の中の人間は「大学で勉強したことなんて将来の役に立たない」とか平気で言えちゃうような人たちが多いんですよ。もうね、あれ聞くたびに怖気がすんだよ、俺。なんでそんなおっかないこと平気で言えちゃうの? って思ってるんだけど、もう怖くて訊けないわけ。

そこで、だ。今現在の教育制度において、高校までは良いとしますよ。と言うよりむしろ、中等教育学校みたいなプランに積極的にして行くべきだと思うくらいですよ。もうね、平均寿命80歳時代なんだから、これからの教育制度は「6・6・6」制くらいに言っちゃいましょうよ。中等教育学校まで義務教育化しましょうよ。だって、そのくらいしたって駄目ですよ。却って勉強嫌いになる児童生徒とそれに纏わるモンペで、学級崩壊どころか学校崩壊ワンチャンありますよ。

そんな世の中なのに、大学と言う組織の中にいるだけで「教養の危機」だとか「高等教育の危機」だとか、今更言い出したって後出しジャンケンでしょうよ、しかも良いとこアイコが限度の。とっくにクライシスは起きているし、いまはすでにカタストロフの現場なんですよ。大学とは何のために存在しているのか、学士と言う学位が持つ意味は何なのか、そう言ったことが

全部希薄化して陳腐化してるのが、現代日本なんだろうがよ!!

どう思う? これってもしかして進駐軍の壮大なワナだったんじゃない? って思うと、妄想は広がるけど現実味はあまりない。そういう陰謀論ならもっと手近に転がっていることもあるし。それはさておき、現実として大学が多過ぎるのは事実だし、大学、すなわち最高学府としての体を成していない大学はさっさとお取り潰しにすべきだ。高等教育の有り難みを理解できないサル山のエテ公どもに学士をくれてやるのなら、政官財のグローバリスト戦略そのものかも知れないが、シンプルな脳味噌の企業戦士育成機関にでも放り込んでやればいい。そう言った進路が有ったって良いじゃないか。

良いですか、レフトウィングの皆さん。「教育の自由」と「教育を受けさせる義務」と「教育機会の均等化」は全部別のものだとちゃんと舌ごと噛み締めていただけませんか。良いですか、ライトウィングの皆さん。「カネにならないものは全部無駄だ」と思っているのなら、まずその思想を抱いているあなた方がカネを生まないので全部無駄です。早々に息をお引取り願えませんか。

今にして思えば、1969年1月19日、そう、かの安田講堂が「落城」したあの日から、日本の高等教育の機能不全は始まっていたのかも知れません。東大は「解体」されるべきだったのかも、知れません。なぜなら、誰がなんと言おうと東京大学は日本最初の帝国大学であり、すべての大学のベースモデルに他ならないからなのです。

本当に本心から人文・社会科学を学びたい、そんな未来ある若者たちのための枠組みづくりをしてください。既存の枠組みで、何とかしようとするのはもうやめましょうよ。時間の無駄ですよ。

だってそれ、GHQの忘れ形見ですよ?




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