思うんだけど日本人に「宗教」って必要かね
のっけから挑発的なタイトルなのは当然釣りであるとして、だ。こんなお題が投稿されていたワケよ。
オウム、創価、エホバなどの新興宗教について
あのさぁ……(苦笑)
ちなみに投稿された日付は7月10日。件の「オウム真理教事件」にて死刑が確定していたうち、教祖を含む7名の執行が有ったのは7月6日であるから、タイミングとしては「平成30年7月豪雨」にぶつかってなお、世間の耳目を吹っ飛ばす勢いのニュースだったことは論を俟たない。
で、だ。いったいこのお題を投稿した人は、私に何を言わせたいのだろうかとちょっと思案せざるを得なかったのだ。何となれば、お題に掲げられたと言うか俎上に乗せられた、「オウム真理教」「創価学会」「エホバの証人」は確かに歴史的に見れば歴とした新興宗教であることには間違いないが、その諸元については全く関係が無い。だが、それでも投稿者は何かを論って欲しいと思ったからこの三つを並べたはずで、そこには思惑があるのだ。
だから私は、投稿者の趣きの反対をやってやることにしよう。
まず、本質的な意味で「オウム真理教」は松本智津夫元死刑囚によって「創作」された独自の教義によってのみ従うものであり、言うなれば「麻原教」なのである。これに対し「創価学会」は元を辿れば日蓮宗に辿り着く仏教系の新宗教であり、「エホバの証人」もキリスト教系の新宗教である。そしてオウム真理教は戦後に成立した宗教であるのに対し、創価学会は戦前、エホバの証人に至っては19世紀に遡る。つまり、後者二団体は本質的には三大宗教の「分派」であるのに対し、オウム真理教は何もないところから生えて来た「突然変異」であると言う点に於いて、この三団体を横並びに論じることは不可能に等しい。
個々の教団に纏わる様々な疑問点は多々あろうが、オウム真理教に至ってはほぼ内乱に等しいテロリスト集団に成り下がった。その点で創価学会はあくまで「公明党」と言う政党を通して公然面を整備しており、エホバの証人はそもそも「戦う」とか「競う」と言ったことを全面的に避けよとする戒律が存在するが、どちらにせよそのくせ折伏はえらく熱心である。あの日曜日の朝に来るの、ほんとやめてくんねぇかな。子供連れてさ。
まぁ、それはそれとして、だ。
こうした「信仰心」の顕れとするものを、私のように無教養で粗野な人間は気味悪がる。子供の頃から宗教教育を受けているならいざ知らず、クリスマスを祝い正月には神社に初詣に行き死んだら葬式仏教で葬られると言う、典型的な「祭りから信仰を切り離した」ような生活を送っている日本人にとっては、宗教そのものが必要とされていない。
つまりオウムがアレフが創価がエホバがと言うよりも、日本国憲法に規定される「信仰の自由」そのものが、実のところ日本人に「信仰の空洞化」を生み出した要因であり、内実としての信仰心を持たなくとも不安を覚えない人間が多数を占める社会が誕生する、揺籃となるのである。
だからこそなのだが、こうした宗教に対する定見を持たない人間ほど、感化されると一直線にのめり込んで行くのである。周りに耳を貸そうとしない、勝手にマインドコントロールされに行く。そうした状況は「信仰の自由」の点からも引き剥がすのが難しい。
そして彼らは「信仰の自由」を履き違えて他者を引き込もうと躍起になる。彼らには功徳かも知れないが、興味関心のない人間にとっては苦痛以外の何物でもない、と言う心理を慮ることさえできなくなっていくのである。翻って無信仰者には「信仰する自由」があると言うことは「信仰しない自由」も有ると言う当たり前の事実を、事実として認識できない状況が、信仰の内在する不信感に映るのだ。
戦前のように「現人神」がおわせられるのならいざ知らず、現代日本に於いて「信仰」を根付かせること、「宗教教育」を有為に施すことは、少なくとも昭和の末期や平成の初期以上に難しくなっている、と言う状況を鑑み、私は敢えて言う。多くの凡人にとって、宗教や信仰は本当にかけがえのない存在たり得るだろうか。そうは思わない。
「鰯の頭も信心」とは、傲岸不遜だが良く言った物である。