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八支則のヨーガ 1.1【アヒムサー】

アヒムサー 傷つけない、非暴力

考え、言葉、体を使った行いで、人や自然を傷つけない練習。

「ヨーガって何?」パラヴィッデャーケンドラム

ヨーガ・スートラ、八支則ヨーガの教えはヤマ、ニヤマから始まり、ヤマ、ニヤマの教えはアヒムサーから始まります。
ヤマ、ニヤマは「ダルマ」の価値の教えであり、その中で最初に挙げられるアヒムサーは、代表的なダルマ、ダルマの中のダルマと言われます。

盗まないこと(アステーヤ)、嘘をつかないこと(サッテャ)、貪らないこと(アパリッグラハ)といった教えは、アヒムサーを徹底することで自然と守られ、禁欲の誓い(ブラフマチャリヤ)、聖典を学ぶこと(スヴァッデャーヤ)、イーシュワラを想うこと(イーシュワラ・プラニダーナ)、足るを知ること(サントーシャ)といった教えは、よりアヒムサーの徹底した実践に繋がります。

バガヴァッド・ギーター13章では、アヒムサーを含む、人間が養うべき20の美質が述べられますが、アヒムサーの美質を持つ人は、すべての美質が備わった人とも言われます。

他の人や生き物、自然を傷つけないように気をつけていれば、当然盗んだり、騙したりしようとは思いません。
常に他者の痛みに繊細なその人は、自惚れや傲慢さとも無縁の人です。

聖典を学び、イーシュワラが世界に満ちていることを知ることで、必要なものが必要なだけ与えられていること、生かされていることへの感謝の気持ちや、他者や環境を思いやる余裕が生まれます。

すでに完全に満たされており、外側や内側の物や状況によって満たされる必要のない人が自分自分だと知ることで、差し出した手を、恐れから引っ込めてしまうことなく、優しさ、丁寧さ、思いやりを表現することができます。

そのように、聖典の理解によって深まるのがアヒムサーという美徳だと思います。

“Fake it and make it.”
本当に優しくなれるまで、優しさが自分自身の自然な性質となるまで、「フリをする」ことも大切だと言われます。
あたかもアヒムサーな人であるかのように振る舞うことで、アヒムサーは自分自身の性質として養われます。

どれだけヨーガ・スートラやバガヴァッド・ギーターの教えに精通し、毎日アーサナや瞑想に取り組んでいたとしても、他者、特に身近な人に対する配慮、優しさを持てていなければ、そのあろうとする努力なしには、聖典の教えはその人にとって単に知識に留まります。

世界全体を装って現れているイーシュワラは、私たちの体や考えにも満ちていて、目の前のその人にも同じように満ちています。
イーシュワラはサーマンニャ・ダルマ、良心としても私たちに現れて、全体、イーシュワラとの調和を常に教えてくれています。

「傷つけるのはよくない行いです。なぜなら私も傷つけられたくありませんから」

その当たり前のことが、無知ゆえに、自分自身を「小さくて取るに足らない人」と見てしまうことから生まれるプレッシャーに圧倒されてしまうことで、見えなくなってしまいます。

本当はよくないことと知りながら、自分が足りなくなる不安から、「これくらいは仕方ない」「みんなやっていることだから」と、良心との摩擦に私たちは目を瞑ってしまいます。
そのような時、当たり前のアヒムサーの価値が見えなくなります。

直接的に他者や生き物を傷つけることは誰もが憚りますが、価値構造の混乱から、間接的に傷つけることが快楽、喜びに見えてしまっていることは、大なり小なりおそらく誰にでもあります。
例えば、強力な洗剤で洗濯物が真っ白になって喜んでいる裏側では、生息環境を破壊されて苦しんでいる小さな命があるかもしれません。
味覚や視覚の喜びを満たす食事の背景には、搾取される動植物や生産者の痛みがあるかもしれません。
安価に買える商品の背景には、貧しい国の劣悪な環境で働く労働者の涙があるかもしれません。

こうしたことは、人から強制されるのではなく、自分の価値構造のダブルスタンダードに自分で気づき、より良心に矛盾しない選択を練習していくことだと思います。
個人の視野にはどうしても限りがあるので、より全体が見通せている先生や先輩に助言を求めたり、同じ志の仲間と話をすることもとても役に立ちます。

外側の助けを利用しながら、人間として与えられた自由意志を自由に使う練習をすることが、人生をかけて私たちが取り組むべき仕事だと言われます。

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