#44 カルマの中和
オーガニック食品を食べていても病気になる人がいるし、ファストフードを食べていても健康で長生きする人はいる。
だからオーガニックと健康は関係ない。
(あるいはヨガをしていても〜。)
という論理を見聞きすることがありますが、ヴェーダの教えではこのように考えます。
全ての生き物には過去生の無数のカルマ(行い)があり、まだ実りを得ていないカルマの一部が原因となって、今世の体や体験が与えられています。
まだ実りを得ていないカルマをサンチタ・カルマと言い、その中で今世の原因となったカルマをプラーラブダ・カルマと言います。
体質や病気の体験もプラーラブダ・カルマによって決まるので、健康に気をつけて過ごしていても病気になることはあります。
ただし、カルマの実り方は、今世の良い行い(ダルマ)や祈りによって中和することができるとも言われます。
健康的な食事や運動をすることや、人や生き物を助ける良い行いによって、もっと大変な事故や病気を体験するはずが、軽く済んでいる場合があるということです。
また、カルマの中和には祈り深い生き方が大切だと言われます。
二人の少年の話
一人の少年は祈り深く、もう一人の少年は祈り深くありません。
二人が一緒に旅をする途中、寺院に通りかかりました。
一人の少年はお祈りをするために中に入りましたが、もう一人の少年は外で待っていると言いました。
不運なことに、祈りに行った少年はサソリに刺されて怪我をしてしまいました。
もう一人の少年は、外で待っている間に一枚の金貨を拾いました。
外で待っていた少年は、祈りに行った少年に向かって言いました。
「見てごらん。祈りにいった君はサソリに刺されて怪我をして、祈らなかった僕は金貨を拾った。祈りなんて意味がないんだよ」
そこに一人の聖者が通りかかり、少年たちから事情を聞きました。
占星術に精通していたその聖者は、ふたりのホロスコープを診てみました。
彼は一人目の少年に言いました。
「君は今日、もっと大きな事故に遭うはずだった。祈ったおかげでサソリに刺される程度で済んだのだ」
そして、もう一人の少年に言いました。
「君は今日、一生暮らせるだけの富が手に入る予定だったが、祈らなかったので、金貨一枚になってしまった」
運命そのものを変えることはできませんが、私たちは行いをすることでカルマの実り方を中和することができると言われます。
また、すべき行いをしないことで、せっかくの良いカルマの実りを得られないこともありえます。
どのような状況においても、自由意志を使って、調和の行い(ダルマ)を選択することが大事だと思います。
ダルマが前提
ヨーガの教えは、基本的にすべて「ダルマ(義務、すべきこと)」が土台の教えです。
「祈りなさい」というのは、「すべきことをした上で」そうしなさいということです。
すべきことをせずに、「祈ったから大丈夫♪」ということではありません。
「テッィッティバーサナができるようになりますように🙏」
と祈るだけで練習をしなければ、テッィッティバーサナができるようにはなりません。
すべきことをすべてした上で、もう一つ付け加えることができる行いが祈りです。
行い(カルマ)は必ず結果(パラ)を生みますので、祈りという行いは何らかの結果を生み出します。
カルマも同様に、「カルマだから仕方ない」と努力しない言い訳ではなく、すべきことをした上で、それでも時として選択の余地なく与えられる困難、受け入れ難い結果を受け入れるために、自分のために学ぶものです。
他の人に対して使う言葉ではなく、間違っても、「それはあなた(その人)のカルマです」と突き放すための教えではありません。
ヴェーダのすべての教えは、私たちが人生の困難を受け入れられるように成長できるために教えられており、自分自身を救うための教えです。
ダルマと祈りによる心の成長とともに、カルマパラ、ダルマからさえも自由な自分自身、「そもそも救われる必要のない人が私」という聖典の結論が理解できる考えが養われます。
カルマについて捕捉
カルマというのは、「過去生の悪い行いの罰を今世受ける」というような単純なものではありません。
たしかに、今世を快適に過ごしやすいカルマの実りと、不便、不快を感じやすいカルマの実りがあります。
私たち全員に膨大な過去のカルマがあり、どのような生まれの可能性もあると言われます。
今世たまたま快適に体、環境に生まれただけで、来世そうでない潜在的な可能性は今世の行いに関わらず、すでに誰にでもあります。
そして、その人が「何を望むか」によってもカルマの実り方は変わると言われます。
「精神的な成長」という点からは、快適な体、人生が必ずしも良いカルマの実りとは言えません。
誰しも、その時はどうしようもなく辛かったけれど、後から振り返ると、「あの体験が自分を成長させてくれた」と感じる体験があると思います。
病気や死別などの辛い体験であっても、結果的に「そのおかげで今の自分がある」と思えていれば、プンニャ(良いカルマの実り)ということができますし、快適で順風満帆な人生でも、精神的な学びが深まらなければそれはパーパ(良くないカルマの実り)だと言われる場合もあります。
全てはその人の「見方」「価値構造」次第であり、考えが成熟し、求めるゴールが明確になった人にとっては、すべてが必要で与えられた、最善のカルマの実りだったということになります。