#45 明け渡し
本来「違い」に過ぎないものを自分の見方において区別して、「分断」を作り出しておいて、喜んだり、怒ったり、悲しんだりしてしまうのが私たち。
そういうことから自由になりたくて、ヨーガなどの精神的な教えを学ぶのですが、そこでもまた「流派」がどうだ、「あれは本物、これは偽物」などとやってしまうのは、もはやジョークのようでもあり、私たちのエゴの根深さでもあります。
ラジャス(動的、外向的な質)な心がある程度落ち着くまでは、知識がかえってエゴや、マウントを取るための道具になってしまうこともあります。
ヨーガでいうなら、あれこれ学ぶより、同じ一人の先生の下で、最初5年くらいはアーサナの練習だけ淡々と続ける方がむしろいいのかもしれません。
「明け渡す」とはどういうことか、ずいぶん学べると思います。
「もっといい先生がいるのではないか」
「もっといい流派、教えがあるのではないか」
「もっと、もっと…」
そうした消費者的な態度は、「私が行い手、結果を出す人」という緊張、プレッシャーから生まれるもので、それらをさらに強めるものでもあります。
ヨーガの教える「明け渡す」「委ねる」という態度は、それとは真逆のものです。
その態度、見方においては、今自分の目の前にいる先生こそが、最善のアレンジメントだということになります。
「いや、近くに他にヨガ教室がなかったからですけど…」
そう思っていたとしても、実際は何らかの縁があってその先生の下に運ばれています。
ヨーガの教えの土台であるヴェーダの宇宙観では、どのような結果にも必ず相応の原因があると考えます。
原因から結果を実らせるのがダルマの法則と呼ばれる宇宙普遍の法則であり、法則によって結果を実らせる人が、イーシュワラ(司る者、神)と呼ばれます。
イーシュワラのアレンジメントによって出会った先生であれば、その人が自分にとって相応しい先生なので、それ以外の先生は必要ありません。
もし他の先生が必要なら、それは然るべきタイミングでイーシュワラによって運ばれますので、私たちがあれこれ悩む必要はありません。
余談ですが、ヴェーダの文化では「結婚」においても同じように考えます。
占星術に従って、親が決めた相手と結婚することも珍しくないといいます。
イーシュワラの決めた相手なので、もしその相手が最善と思えないとしたら、相手ではなく何か自分に問題があると考えるそうです。
そのような価値観からか、インドのハタヨーガでは伝統的に先生の言ったことには逆らわず、黙って従うという傾向があるように思います。
欧米やそれに準ずる現代日本の価値観では理解し難い部分もありますが、「明け渡す」練習という意味合いも強いと思っています。
明け渡し、シャラナガティはヨーガの実践の後の段階、先生から聖典の教えを学ぶ際に、エゴの妨げなく学ぶために必要な資質です。
数年間、信頼をもって一人の先生から淡々と教わることができたなら、その頃には、教えの理解を妨げるエゴもずいぶん落ちているように思います。
そのようなきれいな考えに教えは妨げなく理解されますので、遠回りのようでいて、近道なのかもしれません。
しかし、玉石混交、ビジネス的なヨガも盛んな現代においては、信頼に足る先生に出会えること自体が稀な幸運なのかもしれません。
助けること、与えることといったダルマな行いでプンニャ(徳)を積むこと、良い先生や学びの機会といった形で、プンニャがよい実り方をするための日々のお祈りは大事だと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?