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八支則のヨーガ 5【プラッテャーハーラ】

プラッテャーハーラ 感覚器官の統制

外の世界の好みのものを追いかける習性のある感覚器官を自分自身に引き戻す練習。
求めるに値する価値の見極め、ヴィヴェーカがあることが自然な統制を可能にする。

『ヨーガって何?』パラヴィッデャーケンドラム

感覚器官の統制に関して、バガヴァッド・ギーターではこのように言われます。

karmendriyāṇi saṃyamya ya āste manasā smaran ।
indriyārthān vimūḍhātmā mithyācāraḥ sa ucyate ॥6॥

行動器官を制御して座っていても、考えが感覚の対象を忘れられない人は、惑わされていて、間違った振る舞いをしている人だといわれます。

yas tvindriyāṇi manasā niyamyārabhate’rjuna ।
karmendriyaiḥ karma-yogam asaktaḥ sa viśiṣyate ॥7॥

アルジュナよ。一方、考え(識別)によって感覚器官を制御しながら、執着を手放して、行動器官を使っての、カルマ・ヨーガ(ヨーガ・ブッディをもってする行い)を選択する人は、ずっと優れている。

B.g.3.6-7

ヨーガ・スートラにおいても、プラッテャーハーラがただ感覚器官を閉じること(見ない、聴かないなど)の練習として言われていないことは明らかです。

ヨーガの教えの中で、ジーヴァ、個人はしばしば馬車に喩えられます。

馬車は肉体、4-5頭の馬は5つの感覚器官(※)、手綱はマナス(思考、揺れ動く考え)、御者はブッディ(知性、揺れ動かない考え)、主人はアートマー(個人の本質)が喩えられています。

馬、つまり5つの感覚器官は、それぞれの知覚の対象物に自動的に反応し、そちらの方向に進もうとします。

対象物があって、見える目や、嗅げる鼻があれば、色や匂いといった知覚は自動的で、避けることはできません。

感覚器官は対象を知覚するだけですが、知覚とほぼ同時に記憶(チッタ)を材料として、マナス(思考)が働きます。

「この赤い物はりんごに違いない」
「この匂いはケーキに違いない」

対象が好ましいものであれば、

「欲しい。手に入れたい」

好ましくないものであれば、

「嫌だ。避けたい」

という欲求までがほぼ自動的です。

この時、馬車の御者であるブッディが、「すべきか、すべきでないか」よりも、「したいか、したくないか」が優先の価値構造だと、馬車全体(肉体)が馬(感覚器官)に引っ張られて行ってしまいます。

感覚器官は対象物と出会う度に自動的に反応するので、それを繰り返していれば、意図した目的地に辿り着くことはできず、行き当たりばったりの旅路(人生)になってしまいます。

そうならないために、人生において本当に大切なゴールを成し遂げるためには、物事の価値に関するヴィヴェーカ、見極めが必要だと言われます。

ヴィヴェーカには、色々な段階・種類がありますが、ここで特に大切なヴィヴェーカは、「シュレーヤス・プレーヤス・ヴィヴェーカ」かと思います。

シュレーヤスとは最高のもの、つまりモークシャ(解放・自由)です。
プレーヤスとは限りのある良いもの、つまりアルタ(安心)やカーマ(喜び)です。

束の間の喜びや、ひとときの安心、そうしたプレーヤスを際限なく追い求めるのではなく、自分が本当に欲しいものはシュレーヤスであるモークシャと、そのためのダルマと調和した生き方(ヨーガ)なのだという見極めが、シュレーヤス・プレーヤス・ヴィヴェーカです。

ヴィヴェーカが確かになるほど、感覚器官や思考の快適・不快、好き嫌いに左右されず、全体との調和のためにすべきこと、自分にとってより価値のあるものを自動的に選べるようになります。

千円と百円の価値の違いを知っている人が、迷わず自動的に千円を選べるように。

感覚器官や思考にとって好ましい物であっても、それ以下の価値の物は優先順位が下がるので、結果として感覚器官の自然な統制が可能になります。


※なぜ5つの感覚器官を例えるのに4頭の馬なのか?
「触感」の起こる場所、つまり「肌」は、他の感覚器官の起こる場所すべてに行き渡っているため、4頭で描かれることがあると言われます。
聴覚→耳、視覚→目、味覚→舌、嗅覚→鼻、これらの場所にも触感が起こっています。

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