八支則のヨーガ 2.4【スヴァッデャーヤ】
スヴァッデャーヤ 聖典の勉強
聖典とは
ヴェーダ(ヴェーダの結論部分であるウパニシャドを含む)と、ヴェーダの教えに矛盾することなく書かれた作品(マハーバーラタ、ラーマーヤナなど)が「聖典」と呼ばれます。
ヴェーダとは知識体(知識の集合体)を意味する言葉です。
オリジナルのヴェーダは人間が一生では学び切ることができないほど膨大であるため、より人々がヴェーダの教えを学べるように、聖者ヴャーサによって4つのヴェーダに分けられました。
それぞれの家系で4つのヴェーダのうちの一つを学ぶこととされ、どのヴェーダを学んでも同じようにヴェーダの教えが理解できると言われます。
ヴャーサはさらに、ヴェーダの教えがより人々に理解され、ずっと語り継がれていくために、ヴェーダとその結論であるヴェーダーンタ(ウパニシャド)の教えを物語として作品を完成させました。
それが『マハーバーラタ』という叙事詩で、「第5のヴェーダ」とも呼ばれ、その中に全ヴェーダの結論を余す所なく伝える『バガヴァッド・ギーター』を含みます。
「バガヴァッド・ギーターを学べば全ヴェーダを学んだことになる」とも言われ、ヴェーダの教えの伝統において、学ぶべき最重要の聖典とされています。
より詳しく知りたい方は、チェータナーナンダスワミジの文章をご覧ください。
聖典を学ぶ意味
「聖典の勉強」と聞くと、ブラフマチャリヤ(学生期)やサンニャーシー(隠退期)と呼ばれるステージにいる人だけのことかと考えがちですが、グルハスタ(家庭・仕事期)やヴァナプラスタ(隠退準備期)のステージにいる人にとっても聖典を学ぶことは大切だと言われます。
ヴェーダの教える知識とは、「人が幸せに生きるために知るべき知識」です。
その中では特に、ダルマ(宇宙の法則・秩序)と調和して生きるための適切な行いに関する知識が教えられます。
宇宙全体、世界全体との調和なしに人は幸せに生きることができません。
また、ダルマとして現れているイーシュワラとの調和を選ぶ生き方はヨーガと呼ばれ、ヴェーダがその最後に教える結論(ヴェーダーンタ)を理解するための準備となります。
ブラフマチャリヤの項目でも触れましたが、グルハスタのステージは、家庭や社会での役割を通して貢献、成長する機会が豊富です。
ただ生活のために義務、役割をこなすだけでなく、それらを自身の成長のための道具とするには、バガヴァッド・ギーターの教えるカルマ・ヨーガの学びが大切になります。
結婚の意味、仕事の意味、子育ての意味、私たち日本人の多くは家庭でも学校でもそうしたことを教わる機会があまりなかったように思います。
自分を振り返ってもに、何のための人生なのかわからないままに進学先を選び、就職先を選び、「そろそろ結婚でもしないと...」などと考えて生きていたように思います(^^;
ヴェーダやバガヴァッド・ギーターは、人間の求めるゴールとそのための手段としてのヨーガをはっきりと示します。
人の成長の段階に応じて、祈り、ダルマな行い、瞑想、そしてヴェーダーンタの知識までが教えられています。
知識として学んだダルマの価値を、実際の生活の場面のおいて、「この状況で自分はどのように振る舞うことがイーシュワラとの調和(ダルマ)なのか」を考え、実践していく生き方がヨーガです。
ヨーガで起こる心の成熟、情緒的な成長はアンタッカラ・シュッディ、考えの浄化と呼ばれ、ヴェーダが最後に明かす「世界とは何か」「私とは何か」の知識を理解するための準備となります。
自己探求とは
スヴァッデャーヤは「自己探求」と紹介されることもありますが、それはヴェーダが最後に教える知識が、「私とは何か」の知識であるためです。
ヴェーダ、ヴェーダーンタはプラマーナ、知るための道具とも言われます。
プラマーナには、プラッテャクシャ(感覚器官)、アヌマーナ(推論・考え)、アーガマ(聖典)の3つがあるとヨーガスートラでも紹介されます。
感覚器官と思考は人が生まれ持ったプラマーナ、世界を知る道具ですが、それらの道具を使うその人自身を知るための道具にはなりません。
望遠鏡を使って望遠鏡を覗いているその人自身を見ることができないように。
感覚器官と考えを使って世界を認識している人とは、「私」自身です。
その「私とは何か」は、感覚器官や考えによって、あるいはどれだけ瞑想を深めても、行いによって知ることはできず、知識によって理解される話題であり、聖典の言葉を学ぶ必要があります。
ですので、「私とは何か」を探究することと聖典を学ぶことは同じ意味なのです。