八支則のヨーガ 1.5【アパリッグラハ】
アパリッグラハ 貪欲さのないこと
所有の欲求には、二種類あると言われます。
一つは「持っていない物」への欲求で、もう一つは「持っていないと思っている物」への欲求です。
例えば、家や食べ物、着る物などは人が安心して生きるために最低限必要な物です。
あるいは、仕事で使う道具なども、社会に貢献するために必要な物で、それらを持っていないとしたら、求めることに問題はありません。
「必要な物」で「持っていない物」を求めることは貪欲さではなく、自然な欲求です。
「持っていない物」を欲求しているようであっても、実際はそのものを通じて「持っていないと思っている物」を欲している場合があります。
例えば、「家族を養うためにお金が必要」と、「お金がないと不安なので、安心のためにお金が必要」は異なる欲求です。
「家族を養うため」は自分のダルマ(義務・役割)を果たすための欲求です。
一方、「お金がないと不安」の場合は、本当に求めている物は「お金」ではなく「安心」です。
「私には安心が足りない」と思っているので、安心をもたらしてくれそうなものを欲しがっているのです。
これが、「持っていないと思っている物」への欲求です。
安心、満足、幸せ、それらを自分は持っていないと思っている時、仕事、家族、お金、地位、名誉、健康、など、それを与えてくれそうな物を求めます。
あるいは、外側の物から本当の幸せは得られないと考え、瞑想や神秘体験の中にそれらを求めるかもしれません。
いずれにしろ、得られる物というのは必ず失われる物です。
喜び、満足、幸せの体験は一時的で、いずれまた不安や不満足が現れます。
それらが行いによって「得られる物」と考える限り、パリッグラハ、貪欲さはその人を支配します。
アパリッグラハとは、根本的な問題を注意深く見極めることです。
どうやら自分が本当に求めている物は、物や状況ではなく、安心や満足、幸せだということ。
安心や満足は、物や状況によって叶うように思えるので、それらが欲しいのだということ。
けれどよく見れば、安心や幸せという「物」はありません。
同じ物や状況に幸せを感じる人もいれば、そう感じない人もいます。
同じ人に同じ物や状況が叶っても、幸せを感じる時もあれば、そう感じない時もあります。
ということは、「幸せ」という普遍的な物や状況があるのではなく、「幸せな心(考え)」「幸せな人」があるだけです。
それは、「そもそも私の本質が幸せ」なのですが、ただ「私は足りない」という考えによって「私は不幸せ」と感じる状態があること、「私は足りない」という考えが現れていない時、「幸せ」という私自身の本質が私によって体験されていることを明かしています。
「自分は甘くない」と思っている砂糖が、その間違った結論を手放した時、自分自身の甘さが体験されるように。
聖典の学び、スヴァッデャーヤによってそのことが理解されることによって、アパリッグラハは身につきます。
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