#6 ヨーガ(カルマヨーガ)の生き方【後編】
2024年4月8日に加筆修正を行いました。
ナマステー、さみです。
この場所を訪れて頂きありがとうございます。
カルマヨーガの生き方について、前回の続きの話題です。
前回はカルマヨーガの定義1「ダルマを選ぶ」ことについて、3つのダルマの視点から見てきました。
今回は、
について見ていきます。
私たちは日常的に、自分自身を「行い手」であり、「結果を生み出す人」であると考えています。
結果は自分の行いの結果なのだから、「私が結果を出す人」でいいのではないかと思われるかもしれませんが、実際のところ私たちは行いを選ぶことはできますが、結果を選ぶことはできません。
例えば、車で1時間離れた場所にあるヨガスタジオに行こうと思って家を出たとします。
いつも通り1時間で着くかもしれないし(期待通り)、混んでいて1時間半かかるかもしれないし(期待以下)、空いていて45分で着くかもしれない(期待以上)、あるいはタイヤがパンクしてたどり着けないかもしれない(予想外)。
私たちにできるのは、ヨガスタジオに行くと決めて、家を出ることだけです。
私たちは期待する結果を得るために努力することができますが、結果は意志や努力だけではなく、「ダイヴァ 運」と呼ばれる要素にも左右されます。
原因と結果の繋がりは、私たち人間の限られた視野(考え)、知覚できる範囲を超えてはいますが、支離滅裂ではなく「ダルマの法則」に従っています。
ダルマの法則は、「行いと行いの結果」という視点から見ると、「カルマ(行い)・パラ(結果)の法則」と呼ばれます。
法則とは知識であり、イーシュワラが法則の姿で現れたものがダルマの法則(カルマ・パラの法則)です。
法則によって結果を与える人は、「カルマ・パラ・ダーター」、つまりイーシュワラです。
与えられる結果を、イーシュワラからのプラサーダ(授かり物)とする考えのあり方をイーシュワラ・プラサーダ・ブッディと言います。
そして、結果を生み出す原因である、私たちの行いをイーシュワラへの捧げ物とする考えの形が、イーシュワラ・アルパナ・ブッディです。
スピリチュアルや哲学の本には、「願望・欲を手放しなさい」というメッセージと出会うことがあり、ギーターの翻訳本にもそれに似た表現が見られます。
あたかも願望を持つことがよくないことであるように読めてしまいますが、私たちの行為はすべて願望に基づいていて、極端な話、食欲や睡眠欲といった願望がなければ、肉体を維持することもできません。
願望そのものが悪いわけではないのです。
願望が問題になるのは、願望が執着やプレッシャーを伴う時です。
結果に対する執着なく、ダルマの範囲内で楽しまれる時、願望は私たちを束縛しません。
賢者とは、幸せのうちに成功し、幸せのうちに失敗する人、幸福とともに物事を成し遂げ、幸福とともに物事を成し遂げられない人であると言われます。
本来、この世界で起こる出来事に成功・失敗はなく、原因に対する結果があるだけです。
それは必ずしも自分が期待した形、自分にとって快適な結果、好ましい結果とは限りませんが、イーシュワラ(司る者)のダルマ(秩序)によって、完璧に相応しい結果が与えられています。
「1+1は2」「陶器のカップを硬い床に落とせば壊れる」といった、人間がすでに発見した法則と、「運」と呼ばれるものを含む、未だ発見していない法則があるだけで、宇宙の法則によって全てはそのように定められています。
私の言動で誰かが喜んでくれるのも、別の誰かが不機嫌になるのも、目に見えない法則が滞りなく働いた結果。
私たちにできるのは、適切な願望を持ち、望む結果のために努力をすることと、時間をかけること、祈りによって「運」という要素に働きかけることだけです。
ダルマを選び、アダルマを避ける選択を心掛け、イーシュワラへの捧げ物として丁寧に行いをする、与えられる結果は全てイーシュワラからのギフトであり、最善のアレンジメントとして受け取る態度を養うことが、カルマヨーガの生き方です。
私たちの人生は常に選択の連続ですが、カルマヨーガの生き方を続けていると選択はシンプルになり、迷いがなくなり、失敗(と思える結果)が少なくなります。
選択肢が少ないことは不自由なことに思えるかもしれませんが、メニューが百種類以上あるような店(インド料理店とか)で注文を決めることは大変なことです。
「当店のおすすめはサンバルです」
と言い切ってもらえることで、選択に費やす時間とエネルギーを節約し、より大切な物事に集中することができます。(実際、ベジタリアンは外食や買い物の選択肢が少ないので、食事の選択がとても楽です。)
「選択肢が多いことが自由」なのではなく、「選択のプレッシャーから自由」になるのがヨーガの生き方です。
バガヴァッドギーター2章48節で、クリシュナが語ったカルマヨーガの定義についてのシュローカ(詩)です。
前回、今回と書いたことは、私なりにこのシュローカの解説を試みたものとご理解ください。
ギーターなどヴェーダーンタの聖典は、教えの伝統の中にいる、「先生のいる先生」から学ぶべきものとされています。
私が書いたことはあくまで、ヴェーダーンタの一生徒の学びのシェアですので、しっかり学びたい方は、相応しい先生から直に学ばれることをおすすめします。(私が師事している先生でしたら、ご紹介もできますので、お声がけください。)
カルマヨーガの生き方においてはダルマを選ぶ(アダルマを避ける)ことが大切で、そのためには、ダルマの価値の理解を深めることが大切です。
アヒムサー(傷つけないこと)が大切なのは誰でも知っていますが、「どれほど大切なのか」という「ダルマの価値の価値」は時間をかけて学ぶ必要があります。
ヨーガ・スートラの八支則、ヤマ・ニヤマに代表されるダルマについて、その価値をこの場でも少しずつお伝えできればと思っています。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
namaste.
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