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#41 シャバーサナ、自分自身の本質の体験

アーサナヨーガ(体のヨーガ)のクラスの最後に、みんなで仰向けで横になっている光景を見たことはないでしょうか。
あれは、「あー、疲れた疲れた!」とごろ寝しているのではなく、シャバーサナ(屍のポーズ)というヨガのポーズのひとつです。

実際、運動量の多いクラスのシャバーサナでは寝てしまうことも多いと思ますし、あるいは、横になっていても思考がぐるぐる動き続けてしまうこともあると思いますが、それはそれでOK.

時々、起きているのでも、眠っているのでもないまどろみの中で、深くリラックスしたとても気持ちのよいシャバーサナが起こることがあります。

そのようなシャバーサナ中で体験されるのは、「すべての役割から自由な自分自身」とも表現されます。

私たちは普段、家では親役、妻(夫)役、子ども役、職場では部下役、上司役と日々様々な役割を装っています。
仕事が終わって帰宅途中であっても、「帰ったら家族のご飯を作らなきゃ」と考えているときは、すでにお母さん(あるいは妻、娘)の役割と自分を同一視しており、起きている時間のほとんど全ての瞬間において、何らかの役割と自分を同一視しています。

仕事から家に帰る前に、うまく気持ち(役割)を切り替えるためにカフェなどに立ち寄るという方もいると思います。
コーヒーを飲んでいるその瞬間だけでも、「部下でも親でも子どもでもない自分自身」にひと時留まることで、リフレッシュできるということだと思います。

ヨガのクラスも、日常の役割から離れてリラックスする時間と言う事ができます。

クラスの最初の方は、まだ「目の前の人は先生で、私は生徒」という役割観念がありますが、ポーズに集中、没頭するほど、「私は生徒」ということも忘れられていきます。
(先生のガイドなしに練習が進む流派のヨーガでは、特にこの没頭が起こりやすいと思います。)

クラスや練習の最後、心地よいシャバーサナの中では、「ポーズをする人」という行い手観念さえ手放され、ただただ体や呼吸の心地よさ、体に起こる脈動、外側や内側の静けさだけが認識されています。

なんの役割とも結びついていない、ただ認識の人としてのベーシックな自分自身。
その自分自身に留まることを、「ヨガは自分自身と繋がること」と表現したりもします。(少々語弊もある表現ですが。)

心地よいということは、それが自分の本質だからです。

私たちは、心地よさは何か願望を満たした時に得られるもの、何かを得たり成し遂げたりといった外側の体験や、瞑想やマインドフルネスなどの内側の体験によって得られるものと考えがちですが、真実は自分自身の本質が心地よさであり、ただ本質が何にも妨げられていない時に、自分自身の心地よさが滞りなく現れます。

そのことに気づかせてくれるのが、シャバーサナという体験です。
何を得たわけでも、何かを成し遂げたわけでもないのに、ただ心地よい体験があること。
その時、自分自身を制限するどのような役割観念も現れていなかったこと。
真実を理解するにはその体験(と体験の分析)だけで十分だと言われます。

小学生向けのヨガクラスを教えている友人が教えてくれたのですが、小学校4年生くらいでも、「シャバーサナの時間が楽しみ」という子がいるそうです。
もちろんその子は、こんな話は知らないと思いますが、子どもでも「役割のない自分自身に留まる」時間を心地よく感じるということは、それが私たち人間の本質であることの証明になるようで、感動しました。


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