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#43 「欠乏」と「欠乏感」

私たちが何かを得たいという欲求(願望)を持つ時、2種類の欲求があると言われます。

ひとつは、「持っていない、足りていない物」を望んでいる場合で、実際の「欠乏」からの欲求です。
例えば、空腹や喉の渇きなどは実際の欠乏であり、満たされる必要のある欲求です。
あるいは大工さんにとって、金槌やノコギリは必要な道具ですので、もし持っていなければ手に入れる必要があります。

もうひとつは、「持っていない、足りていないと思っている物」を望んでいる場合で、「欠乏感」からの欲求です。
大工さんにとって、金槌やノコギリは必要な道具ですが、「良い車に乗りたい」と望むとすれば、それは実際に良い車が必要なのではなく、「立派に見られたい(自分は十分尊敬されていない)」という欠乏感からの欲求かもしれません。

「欠乏」には客観性があり、誰が見てもそうだと言える普遍性がありますが、「欠乏感」は主観的で、その人の見方においてのみそのように見えています。

砂浜で貝殻をコインと見間違える時、上乗せされたコインの価値はその人の中だけにあります。
このような間違いを含む、個人的な上乗せのことを「ジーヴァ・スルシュティ 個人の創造」と言います。

「良い車」を所有することで尊敬されると思う人もいれば、そう思わない人もおり、誰が見てもそうだと言える客観性はありませんので、それは個人的な価値の上乗せ、ジーヴァ・スルシュティです。

「尊敬されたい」という例えを挙げましたが、さらに「それはなぜか?」という質問をするなら、欠乏感によるすべての願望の根底には、「それがあれば私は幸せになると思うから」という答えに行き着きます。

今より不幸せになりたくて何かを求める人はいません。
他の人の目から見たらどれほど理屈に合わないように見えることでも、その人にとっては「今より幸せになれる」道理があるように見えるので、それを求めます。

ですが、あなたを幸せにすることはたとえ神であってもできません。

それはなぜか。

すでにその人が持っているものを与えることは、神でもできないからです。

自分は甘くないと思っている砂糖がいるとします。
その砂糖が、

「私はどうしたら甘くなれますか?」

と尋ねるなら、なんと答えたら良いでしょう。

「自分が甘くないと思うのをやめたときだよ」

と答えるしかないでしょう。

この砂糖のように、すでにあるもの、自分自身であるものを「ない!ない!」「欲しい!欲しい!」と言いながら探し続けているのが私たちです。

聖者ラマナ・マハリシは、その様子を例えて「みんな酔っ払いのようだ」と言ったそうです。

制限のある体や考え、感覚器官、それらの複合体を「自分自身」と見る限り、制限の感覚があり、欠乏感は無くなりません。
そして、欠乏感は願望を生み、願望は叶っても叶わなくてもまた次の願望を生み続けます。

シャバーサナの体験など、幸せの体験を分析することで、必ずしも願望が叶うことが幸せの条件ではないことが理解されてきます。
それはヴェーダが明かす、「あなた自身が限りのない幸せ(アーナンダ)そのものです」という、自分自身に関する真実とも矛盾がありません。

欠乏感は、自分自身の本質と自己認識の私とのギャップ、違和感から現れているようです。

そのことを繰り返し繰り返し、クラスや瞑想、サットサンガの中などで、「私とは何か(何でないか)」の識別をもって確かめることが大切だと言われます。

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