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八支則のヨーガ 2.5【イーシュワラ・プラニダーナ】

イーシュワラ・プラニダーナ イーシュワラへの献身・理解・熟考

ダルマの法則、イーシュワラに行ないを捧げていて、イーシュワラから行ないの結果を受けとっている事実の理解とその態度の練習(カルマ・ヨーガ)。
また、この理解と熟考によって考えの私は聖典の宇宙観に解決する(サマーディ)。

『ヨーガって何?』パラヴィッデャーケンドラム

カルマ・ヨーガの練習がイーシュワラ・プラニダーナ

(イーシュワラ)プラニダーナ

प्र + णि + धान (√धा)
pra + ṇi + dhāna (√dhā)

置く、セットする

「(考えを)イーシュワラに置く」
「イーシュワラに(考えを)セットする」

イーシュワラを想って行いを捧げる態度(アルパナ・ブッディ)、結果をイーシュワラからのプラサーダと受け取る態度(プラサーダ・ブッディ)、つまりカルマヨーガの実践、練習がイーシュワラ・プラニダーナです。

「イーシュワラとは何か」がわからなければイーシュワラを想うことはできませんので、スヴァッデャーヤ、聖典の学習(できれば先生の下で)がイーシュワラ・プラニダーナには必要です。

またイーシュワラとは、一度知識として理解したら終わりというものではなく、理解が日常のあらゆる場面において自然な見方、客観性として定着することに意味があります。
そのための練習の生き方がカルマヨーガです。

同じことがヨーガスートラでは、タパススヴァッデャーヤ、イーシュワラ・プラニダーナの3つを合わせて(あるいはヤマ・ニヤマの全てを含めて)クリヤー・ヨーガ(行いのヨーガ)と呼ばれます。
聖典の学びに基づいて、イーシュワラを理解し、想いながら、二極の見方(ラーガ・ドヴェーシャ)に捉われず、自分のすべきこと(ダルマ)を果たす生き方がクリヤー・ヨーガで、バガヴァッド・ギーターの教えるカルマ・ヨーガと同義です。

聖典の宇宙観への解消(サマーディ)

また瞑想の中、聖典の明かすイーシュワラのヴィジョンに考えが完全に解消した状態をサマーディといいます。
八支則の後半でも改めて執筆する予定ですが、聖典において瞑想(デャーナム)とは「イーシュワラを対象として想う考えの活動(行い)」と定義されています。

車の運転や庭の草むしりなどに集中することを、「瞑想(的な時間)」などと表現したりしますが、ヴェーダによればそれらは「ラヤ(没頭)」と言われ、瞑想や瞑想の中で起こるサマーディとは区別されます。
ただしラヤも、「私という行い手、行いの対象物、行いそのもの」の区別が解消しているという点においては、サマーディや熟睡の体験と同じです。
瞑想=イーシュワラを想う考えの行いの中でラヤ、没頭が起これば、それがサマーディです。

たとえ目を閉じて静かに座っていても、呼吸や体の感覚に集中していたとしても、イーシュワラを想っていなければ、ヴェーダの教えで言われる瞑想にはなりません。
逆に言えば、呼吸や感覚器官などを通じてイーシュワラを想えていれば(呼吸などとして現れているイーシュワラを想えていれば)、それは瞑想していることになります。

繰り返しになりますが、カルマヨーガと同様、瞑想もイーシュワラを想う考えの活動なので、「イーシュワラとは何か」の知識がなければ瞑想する材料がないということになり、やはり聖典の学びが前提となる行いということになります。

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