日本郵船歴史博物館閉館(移転)雑感諸々
日本郵船歴史博物館を初めて訪問したのは二〇一八年前後だと思われる。艦船を追いかけ始めたのは二〇一二年末の頃だったから、そこから数えれば五年も後のことだった。出不精とはいえ、関東の艦船オタクにしてはこの博物館に対してノーマークだったといえる。
恥ずかしながら正直に告白すると、私にとっての「ふね」とは長らく「海軍の艦艇」のことであった。
それは戦史・ミリタリー趣味から始まった「艦船の追いかけ」だったためでもあるし、軍隊という歴史では良くも悪くも著名な存在に対して、海運会社やその仕事や担った文化的価値というものは「ふねの歴史」に関わる存在としては地味なものだったからだ。その「地味」という評価は何かしらの侮蔑や蔑視や軽視ではなく、単純な無知に由来する「初心者には受信できないマイナーな情報」という意味での「地味」だった。
歴史という大河にまったく詳しくなく、なぜその艦が必要とされたのか、軍艦とは何か、海軍の由来は、海軍の意味は、国家の矛と盾としての軍隊とは、当時の時代の日本の様相は、世界の海とは……。あるいは、海運会社が文化面で担った責務とは?貨客船で行いたかった生業とは?そのような世界の展望や横断した知見には程遠い視点で、個々の艦の知識というよりは情報ばかりを己のなかで肥大させていた(この空母の排水量は、艦載機は云々……)。
さらに私の言う「海軍のふね」といえば軍艦――戦艦や航空母艦、巡洋艦――であって、特設監視艇や病院船、あるいは海防艦などでは決してなかった。後者はいわんや無知な人間にはあまりに「地味」すぎた。私にとって艦は美しいものであり、美しければそれで十分で、その艦の基本情報と周りとの関係性が多少分かればそれでよかったのである。戦闘は戦争の華である。戦闘艦は美である。海上護衛などはいくらかの人間が言うように意味も、存在も、実際の任務自体も、ことごとく文字通り地味であり、同時に上記の意味でも「地味」で初心者には理解ができない複雑怪奇なふねの運用方法だったのだ。
そうしてふねの浅瀬で遊んでいるうちに五年が経過した。
何をして海上護衛や徴用船、特設艦船などに興味を持てたのか、日本郵船歴史博物館の初訪問の時期と同じく覚えていない。しかし当たり前だが五年も経過すれば浅瀬も浅瀬なりに広く深くなる。航空母艦隼鷹(貨客船橿原丸が戦時体制により改造され造られた艦)などから入ったような気もするし、あるいは艦艇種別一覧などを読み解いていけば特設艦船など容易に見つけることができよう。病院船などは存在自体は知っていた。特設病院船という日本海軍が元民間船舶に振った種別を私が認識していなかっただけなのだ。
またこの頃になると海軍や艦艇の濃紺深き実直な文化ではなく、千紫万紅を彩る客船文化に目を奪われるようになった。それは地味とは程遠いものであった。茫漠と漂う爛熟した幸福とちりばめられた奢侈な調度品、海の上だからこそなおさら祈らざるを得なかった素朴な平和と友好の念、海を越えた友情の握手――そんなやさしい世界がそこにはあった。
海軍軍人よりも多くの割合で人員が戦死した軍属たちの怨嗟の声は、その華やかであったはずの叙述詩的世界からの転落とその戦地との落差に鮮やかに彩られ、殊更に悲惨に感じられる。
五年を経た私は、海軍の戦闘での敗北のみを悲劇と捉えるほどに軍隊的あるいは単細胞的な美学を持てなくなっていた。
だから海運というものに活路を求めたのは一種の必然だったかもしれない。美しかった生や美しくなるはずだった未来が戦争という災厄により無残にも失われ、軍艦へと装いを変えられて戦場という火の海の中へと向かう元貨客船や元貨物船など(またその乗組員たち)は、私にポストコロニアリズムや越境文学的な離別を容易に彷彿とさせた。それを悲劇と捉えて消費するそこに一種の危うさがなかったといえば嘘になるが、それでも私はそれを自分の命題として受容したのだった。
日本郵船歴史博物館の移転は寂しい。
再開館は二〇二六年予定らしく、その間に展示も図録もない。移転は新築の高層ビルのなかである。今のような天井が高く影の濃い文化財ではない。どうなるのかさっぱり予想がつかない。
それでも建物も博物館も無くならないだけ有り難いのかもしれない。とりあえず私は二〇二六年まで生きのびねば。
日本郵船歴史博物館と日本郵船に、長い感謝を捧げたい。