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おいしいごはんは誰のため?

おいしごはんが食べられますように / 高瀬隼子

わたしは自他共に認める食いしん坊である。同世代女性の平均よりもたくさん食べて飲むし、Googleマップを開けば300以上の行ってみたい飲食店が保存されている。「あなたはレストランに入ってメニューを見た途端、声が大きくなってよく喋るようになるよね」と言われたこともある。

そんなわたしからすると、食べることは日常の中で圧倒的に大切な行為だから、「ちゃんとご飯食べてね」は「あなたのことを気にかけていますよ」だし、
「おいしいものを食べに行こう」は「あなたと一緒に楽しく幸せな気分になりたい」とほぼ同じ意味を持つ。
それが相手にも十分伝わっていることを今まで疑ったことがなかったが、この本を読んでその考えが揺らいで、急に不安になった。

「おいしいごはんが食べられますように」は職場が舞台だが、お仕事小説ではない。恋愛小説とも言い難く、人に説明しようとすると「価値観の違う人間同士がすれ違ったり対立したりする中でどうするかって話…」と歯切れが悪くなってしまう。

物語の語り手となるのは二谷という男性と押尾という女性のふたりで、そのどちらの語りの中でも芦川さんという女性が彼らの感情に波を立てる。でも芦川さんが語り手になるパートはないので、彼女が取った行動の裏で何を考えているのかはずっと分からないという構成が憎い。

わたしは二谷、押尾、芦川さん全員の気持ちが少しずつ分かるけど、彼らの取る行動はどれも理解できない。なんで手作りの立派なご飯を食べた後にカップラーメンを食べてしまうのか、なんでわざわざ捨てられたお菓子を芦川さんに見せつけたのか、なんで体を張って猫を助けようとする押尾が濡れないように傘を傾けてあげなかったのか。どれも分からないのは、おそらく信条が違うからだ。

信条というと大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、生活様式というのは信条の塊だとわたしは思う。食ひとつ取っても、それに対する信条はそれぞれである。コスパを最大にするのが正しい人、自分がおいしく食べるのが正しい人、丁寧な食事を作って食べるのが正しい人。生活様式というくくりの中では睡眠や運動に対する信条もあるし、仕事における信条、お金の使い方における信条もある。

この前十年来の友人と旅行に行った時、わたしがあまりにもお風呂に入るまでにうだうだしているので驚かれた。彼女は身体がベタベタしている状態がイヤで、なるべく早くさっぱりしたいらしい。わたしにとってお風呂は「本当は面倒臭くてスキップしたいけどスキップしたときの社会的なデメリットが大きいので仕方なく通る工程」でしかない。

彼女はそんなことを言わないけれど、もしそこで「お風呂って気持ちいいし、入浴できる状態ってありがたいものなのに、嫌いなんてもったいないよ。この入浴剤使ったら好きになれるんじゃない?バスタオルもっといいのにしたら?」などと言われたらウエッと思うだろう。メリットが多く、ポジティブに捉えるべきなのはこちらだって分かっているのだ。

そういう信条の押し付けが、こと食周りで起きやすいというのは確かにそうかもしれない。三度の飯より好き、という言い回しは、三度の飯を全員が好んでいる前提がなければ生まれない。二谷からしたら、三度の飯より好きなものなんて数えきれないほどたくさんあるのだろう。

二谷のモノローグでハッとして、何度も読み返した部分がある。

(前略)それでも飯を食うのか。体のために。健康のために。それは全然、生きるためじゃないじゃないか。ちゃんとした飯を食え、自分の体を大切にしろって、言う、それがおれにとっては攻撃だって、どうしたら伝わるんだろう。

P.123, 124

冒頭で書いた通り、わたしの「ちゃんとご飯食べてね」は相手に対する心配と慈愛にすら似た思いの表れなのだが、それが攻撃になる可能性を今まで考えたことがなかった。だから、少し不安になったのだ。人とのコミュニケーションは、約30年絶えず行っているはずなのに、いつでもずっと難しい。

物語は嫌な予感がするものの、これ以外の終わり方も不自然な気がする形で終わる。わたしだったらこの結末は避けるけれど、二谷とは恋愛における信条も違うのだ。

これは余談、かつ超個人的な感想(というか深読み)だけれども、刺さったのが終盤で芦川さんの目元を彩るものとして描写される"シルバーのアイシャドー"。きっと彼女はパーソナルカラー診断の結果に忠実にメイクをする人で、きっと一度診断で出たブルベ夏に合わせてアイシャドーを選んでいるのだろうな、というところまで想像できてしまった。勝手な深読みだが、なんとなく当たっている気がしてならない。

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