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太宰治 斜陽の読書感想文
比較的、本を読むことが好きな家族に産まれました。母も父も小説を読むのが好きで、おじいちゃんやおばあちゃんたちも読書好きという部類に属している人間だったと記憶しています。
有難いことに読書という習慣が幼少期から身近にあったお陰で今でも本を読むのは割と好きな方です。読む速度こそ早くは無いですが、本を読む時間があるというのは確実に心の安寧に繋がっていて、出先で本屋を見かけるとつい入りたくなり、そして本屋に入るとつい小説を買ってしまうこと、ままあります。
社会人になってからは色々と忙しなく日々が過ぎ去ってしまいますので日常的に読書をする時間は取れておらず、読みたいなぁと思って買った本が積読となっていつの間にか私の好きそうな本たちがたくさん並んだ本棚になってしまっています。
安直ですが、noteに好きな小説の読書感想文もどきを書いて残しておこう。と思い立った訳です。
私の好きな本を紹介したい、あわよくば私の好きな本たちを読んでくれはしないかしら、なんていう下心もちょっとだけ。
最初に紹介するのはどの本にしようか。と暫く悩んで、社会人になってから読んだ本の中で1番好きだったやつにしよう、と思い立ったので今回は太宰治の『斜陽』です。
私の忘れられない“あの人”のことばっかり書いてたnoteだし。丁度いいや、と思ったわけです。
私の事をよく知る人は、また『斜陽』の話をしているのか、と呆れるかもしれません。
だって、この小説、私の傷に滲みて痛くて痛くて仕方ないけどすごく愛しいから。
この『斜陽』に出てくるかず子が愛しくて、苦しくて仕方がなくて。
たった1人に焦がれて、焦がれた先にあった絶望。それに似た苦さを、確かに私も味わったことがあったから。
私が『斜陽』のこの一幕に焼かれた理由です。
自分の人生をようやく生きられるようになったかず子が、自分の心に従った先にいたあの人。
勝手に一人想いを募らせては手紙を送り、返事を貰えずに気を揉んで。堪えかねて遥々会いに行ってみたらそこにいた憧れの“燃えるような虹”は、ただただ一人の人間で、革命の犠牲者だった。
「しくじった、惚れちゃった」
そのひとは言って、笑った。
『斜陽』で最も有名な台詞ではないでしょうか。
この台詞は賛否も多く、私と違った感想を持つ方も多くいらっしゃいますが、私にとってこの台詞は、本当に大好きで大切で、苦しくて仕方がありません。太宰治が、どういう心象を込めて書いたのかは分かりません。私はただの一読者でしかないから。でも私にとってこの台詞は、この一幕は、とても、とても大切なんです。
惚れてしまったという自覚。ただ感情に従ってしまう、理性的とは程遠い自分に向けた気恥しさや悔しさ、劣等感。もしくは諦観といったその全てを『しくじった』という言葉に込め、『惚れちゃった』と、そう言って笑った彼。私にはそう言葉を選んだ彼がとても愛しく映りました。不器用で、見栄っ張りで、愛しい。
「惚れてしまった」という言葉の枕詞は「しくじった」以外に見当たらないのではないかと思うくらいに、その言葉選びが私に深く突き刺さってしまいました。惚れたが負けと言われる所以が全て詰まっていて。本当に愛しい。
そう言って笑った彼は、確かにこの瞬間、かず子を見ていました。彼女の、手紙に書いた革命の想いがようやく彼に伝わった瞬間でした。
でも、かず子は彼の中に自分は存在していないこと、彼もまた人間だということも知り、あんなに焦がれた気持ちがすうっと消えてしまいます。
憧れた人も人間だった。性慾のにおいをさせながら自分に向かってそんな事を零す、私の焦がれた人。あの人の中に自分が存在しない悲しさ、すれ違ってしまった悲しさを仕方がないとして。
仕方がないんです。彼の中に自分が存在しないことも、性慾のにおいも。だって、先に“しくじった”のはこちら側だから。仕方がないんです。
だから消えてしまった恋も、仕方がない。
その絶望は希望でもあり、呪いであり、幸福の飽和点でした。彼もまた、革命の犠牲者であることをかず子は理解をします。彼が、彼女の全てだった。だからそれらを一点の幸福として生きていけると悟ってしまった。ここで成就した恋に続きは無くとも。焦がれた恋の終着点だとしても。それで生きていけると悟ってしまった。
すれ違ってしまった未来の無い恋の成就。それはかなしいけれど、この“くしゃみが出る程の”飽和点は彼女の拠り所となり、彼女の一部となります。強さを与えたのは彼だと、革命の虹をかけたのは、生きる目標を与えたのは彼だとして、彼女は古い道徳と争いながら生きると覚悟します。
あなたも、あなたの闘いをたたかい続けてくださいと願って。
私は『斜陽』のこの一幕が滲みて、痛くて痛くて、すごく愛しい。
この一幕を幸福の飽和点とするかず子が美しく見えてしまって仕方がありません。
かず子が、この幸福を飽和点として生きていけると悟ったこと。自分に強さを与えたのは彼だとし、彼を拠り所として彼女の一部にしたこと。私はそれがすごく嬉しい。
何故ならこの革命は私の呪いと似た形をしているから。たった1人に焦がれ、想い続けた人間の末路だから。未来が無くともこの恋は成就したと自覚し、満ち足りたこの幸福の飽和点。それで生きていけるなんて。なんて幸せなんだろう。
私の呪いに、満ち足りたと、成就したと、終止符を打つ日というのが来るのかはまだ分からないけれど。いつか彼女がそうしたように、結末を抗うことなく受け入れられたら。私の呪いを拠り所として生きていけると確信できる日がいつか来てくれれば、と願わずにはいられません。
彼女が革命をやり遂げたように、私はこの呪いという革命をやり遂げるべく、生きる他ありません。
多分、この文章は読んでないと伝わらないことばかりな気がしていますが、感想文という設定に則り、私に1番刺さっている場面の自己解釈と自分の感情を中心に書き殴りました。
読んでない人は分からないのが正解です。
読んだ人にも伝わるかどうかちょっと怪しいかもな。感想が偏ってるから。
この本に出会えた事、付け加えるなら、この小説に描かれている感情たちが身に滲みるような人間に成長してから出会えたということ。私はそれが本当に嬉しい。幸せだと思います。
物語には、出会うべきタイミングというものがあると思っていて、私にとって『斜陽』はまさにそんなベストタイミングで出会えた作品でした。
身に滲みて痛くて仕方ない、けれどもすごく愛しく思えて大切に思えて強く揺さぶられるような感情を持てる読書体験なんて滅多と出会える物ではありません。
だから、太宰治の『斜陽』は、私にとって大好きな、大切な作品です。
もしこれを読んで気になってくださった方は是非。
私の、太宰治『斜陽』の読書感想文でした。