「作品」の本質は「現在」にある
ある大学の入学試験の小論文で、「作品」の本質とは何か、を考える問題があった。課題文では、文学作品、音楽作品が例に挙げられ、作品中で省略されている箇所を「受け手の解釈」によって補う、という点が注目され、そのような「解釈」を引き出す文章や楽譜といったテキストを基本とし、そこに受け手の解釈が加わることが「作品」を成り立たせている、という説明だった。私としては、この説明には「作り手の意図」と「受け手の解釈」という二つの軸が存在しているように感じられた。テキストは作り手が何らかの意図を持って作ったものであるからだ。したがって、テキストを重視するかどうかは、「作り手の意図」と「受け手の解釈」とのどちらを重視するか、に言換えることができると考えている。
私としては、「受け手の解釈」こそが最重要であり、「作品」の本質だ、と考えている。それが「作品」と呼ばれる以上は、「誰かが見る(聴く)」ことが前提だと考えるからだ。もちろん、未発表の作品というものは存在する。しかしこれも、「作り手」自身を、「最初の受け手」だと考えれば、やはり、「受け手の解釈」こそが本質だということになるのではないだろうか。「受け手」のいない「作品」は存在しないはずだ。誤解を生まないように付け加えておくと、「受け手の解釈」が本質であって、それがすべてだと述べているわけではない。「作り手の意図」がゼロだと言いたいわけではない。重要性においては「受け手の解釈」が第一だ、という意味である。
これが何を意味するのか。「作り手の意図」と「受け手の解釈」は、別の言葉に言換えることができる。「作り手の意図」は「過去」で、「受け手の解釈」は「現在」だ、ということだ。「作品」の本質を「作り手の意図」に置いてしまうと、それはもはや「過去」に縛られたもので終わってしまう。「過去」における評価に固定され、新しい捉え方をする余地が失われてしまう。このリスクは非常に大きいと考える。だからこそ。あえてでも、「作品」は、「現在」、つまり、「受け手の解釈」を本質とする、と考えるべきではないだろうか。岡本太郎は『日本の伝統』のなかで以下のように述べる。
「ところが彼らは、その点をごまかしています。(自分たちが小指の先だけでも力をかしたわけではないのに、)まるでおのれの権利ででもあるかのように古典をふりかざし、過去のがわにたって居丈高く現在をいやしめ、今日ただいま、おのれが負わなければならない責任をのがれている。卑怯です。これが今日の伝統主義者なのです。」
1956年に発行された書籍らしい。しかし、なんとも真理を衝いている。思わず、「師匠」と呼びたくなる。確かに「過去」の言説ではある。しかし、大事なことは「受け手の解釈」なのだから、それが発表されたのがいつなのか、語り手がどんな偉大な人物かなど、何ら関係のないことだ。「現在」を生きる「受け手」がどう感じるか、が「作品」においては大切であろう。私という「受け手」の心にはかなり刺さっている。
次に。「作品」とは何か、と考える。非常に曖昧だ。多くのものを含む。私は大学受験の指導を生業としている。毎日のように大学受験のための授業を行う。この授業は、生徒たちが国語や小論文の試験で高得点が取れることを目標にカリキュラムが組まれ、教材が準備され、一回一回の授業が構成される。多分に「作り手の意図」が込められたモノだ。しかし、その「意図」がどのようなものであったとしても、授業の良し悪しは、実際に、生徒の得点を上げる、もしくは、得点が上がりそうだと生徒が受け取る、という「受け手」次第で決まる。つまり、授業も「作品」だ。その本質は、常に「現在」、「受け手の解釈」にある。したがって、こちらがどんなによいと思っていても、相手がどう受け止めたか、相手がどう変化するか、に注目し、それをよりよいものとするための工夫と努力が行われなければ、意味がない。「作り手の意図」や「今までの成功例」という「過去」にとらわれていては進歩がない。生徒たちは、校舎によっても、学年によっても、年度によっても、一人一人も、全く違う。それなのに、授業が同じでよいはずがない。「過去のがわにたって居丈高く現在をいやしめ、今日ただいま、おのれが負わなければならない責任をのがれている」ような伝統主義者ではダメだ。
大事なことは、「作り手」である自分が「受け手」の第一号だ、ということではないだろうか。もちろん、授業を受けた生徒の反応や問題の出来具合を注意深く拾っていくことは当然だ。「現在」に基準を置く以上は、必要不可欠で、最高の判断材料である。しかし、初回の授業の時点では、「現在」の確たる判断材料はない。その上、月曜日に行った授業を木曜日に別の校舎で行う場合、月曜日の生徒たちの反応は、そのときは「現在」であるものの、木曜日においては「過去」である。月曜日の反応は貴重な材料にはするけれど、木曜日という「現在」と向き合うことを忘れてはいけない。だから常に、「予想される受け手」をイメージしながら、その都度の導入、強調ポイント、授業のテンポ、終わらせ方を決めていかなければならない。そこでもっとも頼りになるのが、「受け手第一号」の自分である。自分は「予想される受け手」のイメージを担っている。この自分をできるだけ生徒に近づける、もしくは、生徒たちをできるだけ自分に憑依させる。これが、「受け手第一号」としての自分の質を高める方法だろう。
「受け手第一号」としての自分が、面白い、ためになる、受ける価値がある、と思えるような授業をその都度その都度つくっていく。これが私の使命だ。そしてそれは、「作品」を毎日毎日作り続けている、ということでもある。そしてこの作品は、毎日毎日、その場で「受け手」の反応を得ることができる。自分の「作品」の生の反応が毎日受け取れるなんて、「現在」を本質と考える人間からすれば、とてつもなく幸せなことで、とてつもなく鍛えられることだ。自分やみんなの反応が、私を伝統主義者から遠ざけてくれる。私は「過去」を材料に、常に「現在」と正対すればいい。きっと素敵な「未来」が待っている。そしてその「未来」が、そのうち「現在」となる。そのときにはその「現在」と正対するだけだ。なんてすばらしい人生か。本当に、私は幸せ者だ。それも「受け手」のみんなのおかげだ。これからもどしどし鍛えてください。