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文字で伝える ということ

勉強の基本は「読み・書き」だと一般的には云われている。
「読む」とは、書かれている文章をなぞるだけではなく、読み取る。それは、イメージする、理解する、覚える、ということである。
そして、「書く」とは、すでに得ている知識や記憶を具現化して残したり、反復することで新しい知識を記憶に刻むための方法だ。また、自身の想いや考えを他者へ伝えるための手段でもある。

しかし、インターネットの発展と普及に伴い、動画などが「自分の意見を述べる方法の1つ」として確立されてからは、ブログや独自ホームページといった文字や文章での主張や伝達は少しずつ減少傾向にあるように思う。

本記事では、「書く」ということについて、私が心がけている点、気を付けている点を理由なども添えて述べていきたい。もし、この記事に目を止めてくれた人がいたならば、少しでもお役に立てれば幸いである。

文章で表す

文章で何かを表すには、まず、表現力が必要である。
文字の連続である文章では、写真画像や動画のように視覚的にシーンを見せることはできない。読み手が文章を理解し、想像することで初めてシーンが生まれる。写真画像や動画では、見せられたそのものが1つのシーンであるが、それは誰が見ても大差の無い同じシーンである。
しかし、文章が生み出すシーンは、読み手の数だけ違う光景が描かれる。

例えば、「目の前に大福餅が1つあった」この一文だけで、どこまで想像ができるだろうか。色は白かピンクか、大きいのか小さいのかなど、不確定要素が多いために、ボンヤリと読み手自身が思い浮かべる記憶に任せることになる。

しかし、こうすればどうだろう。「目の前に、ひと口では食べきれないであろう、桜色がかった大福餅が1つあった」
これで、やや大きめの苺大福であることを想像させることができる。

つまり、状況や光景を文章で表すとき、読み手が想像するための材料をできるだけ与えてあげれば、書き手の想い描いたシーンへ近付けさせることができるのだ。
このとき、言い回しや表現を工夫することで、読み手のイメージをある程度誘導できる。「大き目」や「やや大きい」ではなく、「ひと口では食べきれない」とすることで、少しずつ食べるという想いを抱かせ、それは味わって食べる光景へと進み、美味しそうというイメージに繋がる。
「桜色がかった」という部分がもし、「ピンク色の」であった場合、合成着色料や不自然な桃色を想像しかねない。そのため、淡い自然の色の表現を用いることで、綺麗なものとして印象付けることができる。

食べるときの表現も、ただ「苺大福を食べた」ではなく、「口を大きく開け、中の苺が顔を出す部分までを頬張った」とすると、その違いはもうお分かりだろう。

文章とは、基本的にこの連続であると言える。もちろん、説明が過剰過ぎてもいけないが。

上記のように、光景や動作の表現は、比喩や言い回し次第でその方法はいくらでもある。だが、人の感情や心情を文章で書き表すことは難しい。

今はもう死語かもしれないが、「ラブレター」などはその最たる例だ。
ただでなくとも、自分の想いを他人に伝えるというのは難しい。それを文章でやろうというのだから、恥ずかしいものになることは、ある意味避けられない。

しかし、「ラブレター」が一昔前まで重宝されてきたのは、想いを記すことそのものが、想いの強さを表すことになっていたからではないだろうか。
人の感情は綺麗事ではない。ときには押し殺すこともできず、悶え、苦しむこともある。それを文章で表すとき、想いの強さはそのまま表現力となる。ただ、これは自分の想いを伝える場合においてはである。

やはり、他人の感情を文章で表すためには、イメージをさせる材料となる表現が必要なのだ。

「大いに好感を覚えた」という言葉を例に取ると、「気に入った」「好きになった」「喜んだ」という感情を連想をしやすいだろう。これを次のように書き換えてみよう。

「両手で抑える程に心臓は拍動し、頬を赤らめ笑みを浮かべた」
感情そのものをストレートに記すのではなく、その感情によって引き起こされる”仕草”や”行動”、”現象”などを書き並べることで読み取ってもらう。
また、感情そのものを示す言葉を使わないことで、読み手にイメージさせ気付かせる。それはつまり、その光景を見ているような感覚(に近い感情)を持たせることも、ある程度は可能だ。

読み手に可能な限り明確なイメージを起こさせるためには、まず書き手がそのシーンを明確にイメージできていなくてはならない。人物、風景、状況、現象、過程、それらを書き手自身が明確にイメージすることができていれば、上記で述べてきた手法による表現の材料は、イメージが明確であるほど豊富であり、その中からより強く印象付けられるものや、伝えやすい現象、また、それを書き記す順番を工夫するなどで、表現方法の選択肢は広がっていく。

文章で残す

写真画像や動画と同様に、文章も「残す」「記録する」という点において大差はない。見る側の”手軽さ”という面では、前者の方が良いと答える人は多いだろう。

昨今では、ツイッターやメールといったもので、数十文字~百数十文字程度であれば写真画像や動画を作るよりも書いた(打った)方が早い。ちょっとした”ひと言”を伝えるだけのときは特に、そうであると言える。
しかし、複雑な内容や話しが長くなることを伝えるとき、一番早いのはやはり動画などの映像である。(テレビがその最たる例だが、今は一般的に誰でも取れる方法という視点で考える)

”複雑な内容や話しが長くなること”を文章にする利点を考えると、それは書き手側の視点では「手軽さ」「表現の選択の多さ」が挙げられる。読み手側の利点は、「記憶の残りやすさ」「後の探しやすさ」であろうか。
動画などは、目を離した間のことを見逃す(聞き逃す)などが起こりやすいが、文章の場合、目を離したら次はその続きからである。故に、全てに目を通すことが多くなり記憶に残りやすいと考えられる。また、動画などでは、その中での発言や映像中で示されたものを後に探し出すのは一苦労であると思われるが、インターネットでは文章の中の部分的な語句を探しやすい。

昨今のインターネットでは文章物(記事物・文書)よりも、写真画像や動画のほうが瞬間的な拡散力や影響力は大きい。しかし、「記憶」「再検索」という面においては、文章物(記事物・文書)に軍配が上がる。これは、長い目でみた場合に、”知識”と”認識”の定着をし続けられるということだ。
WEB版での新聞各社のニュース記事などが良い例だろう。良い事も悪い事も後々まで残り、簡単にそれを見直すことができるのだ。それは個人レベルの話しでも同様である。ツイッターでの発言やこの「note」においてもだ。

研究論文や法律解説なども、そういった意味では文書で残されているものが多い事は、自然の成り行きとはいえ有り難い。

では、インターネットから出て実社会ではどうだろう。
先の例に出した「ラブレター」などの手紙も、手元に残る文章だと言える。想いが込められた手紙というものは、(場合にもよるが)なかなか捨て難いものである。それを何度も手に取って見返すことで、相手の想いを理解し、感じ取り、答えを出すに至ることもあるだろう。
メールとの大きな違いは、書いた者の自筆であるということ。筆跡はもちろん、どんな用紙に書いたのか、どのように届けられたのか、その後どうなったのか。そんな光景もまた、手元に残るが故に、後々には想いとして綺麗に塗り込められていく。

”残る”、”残す”とは、そういうことなのだ。

文章で伝える

「ラブレター」に限らず、実際の手紙というのはある種の重みがある。それは、親から子へ、子から親へ、恩師から教え子へ、教え子から恩師へ、そして友人へも。自らの文字を綴り、ペンを走らせ、贈る。一連の行動により届けられる想いは、おそらく経験したことのある者しか実感するはことはできない。願わくば、”贈る”と”貰う”の両方を一度は経験してほしいが、”貰う”については中々難しいところだ。

さて次は、文章で”個人から一般大衆へ伝える”という視点で見てみよう。

インターネットの中では、ツイッター等でも”それ”は可能ではあるが、多くのケースで知り合い(フォロワー)の間での周知や会話に止まってしまう。「広く大衆に向けて」、となると難しいのが現実だ。その点では、「note」や他のブログサイトのような記事サイトが注目されやすい。

”ある程度の認知度が必要”というハードルはあるものの、他人の記事は紹介しやすく、一般的に広める行為そのものにそれ程抵抗は無く、ツイッター等で紹介されると第三者の記事は比較的広まりやすい。そして何より、上記で述べたように「記憶の残りやすさ」「後の探しやすさ」が徐々に効果を発揮する。これは、”伝える”というよりは、”訴え続ける”という行為に近い。
この”訴え続ける”ことができる強みこそが、文章の利点と言える。

拡散の瞬発力こそ写真画像や動画には及ばないが、写真画像や動画はその分他のものの中に埋もれていく速度も速い。そして探し難い。

いずれにせよ、人から人へ”想いを伝える”というのは簡単ではない。
伝えたいことが”訴え”であった場合、納得させるだけのエビデンスを示す必要がある場合や、共感を得なければいけない場合など、所謂、説得力を持たせることが必要不可欠である。文章で”それ”を(図解入りなども含め)示すことができれば、時間はかかることもあるだろうが、少なくとも”伝える”という意思を示し続けることが可能となる。

”訴え”や”知らせ”でなくとも、個人の”感情”を綴った記事も同様だと考える。
何が起こり、何に対して、どう思ったのか。人の感情を知るということはとても大切である。モラル低下が問題視される昨今、インターネットの中での交流では特にそれは軽視されがちだ。”感情記事”というのは注目を集め難いと思われるが、それを示し、”伝える”ことにも意味がある。

文章を読み取る

書き手側に常に意識してもらいたいのは、読み手側が「”事”の詳細を知らない可能性」である。
書いている者は、自身が詳細を知っているばかりに、説明を端折ってしまうことも多い。それは、読み手側の理解を遠ざけることに繋がり、周知されることへのハードルを上げてしまうことになる。読み手がどこまで読み取れるのかというのは、裏を返すと、どこまで知っているのか、ということだ。

ここまで述べてきた文章の手法、表現の方法など(もちろんその他の論法なども)を駆使し、”事”の詳細を織り込んだ文章にすることができれば、それは読み手にとってイメージがしやすく、理解しやすい。共感を得やすいという現象へ繋がっていく。読み手側の視点で自分の書く文章を見るのは、多くの理解と共感を得ようとする場合、忘れてはならない。

示された文章(記事など)をどう読み取るか、それは読み手に委ねられることは変えられないが、それをある程度書き手の意思で誘導できるのは上記でも述べた。書き手に取っての”読み取る”対象とは、自身で書いた文章そのものもそうだが、それ以上に、読み手の状況、感情、傾向、をどこまで感じ取れるかということである。


「長文で書き記す」というのは、慣れない者にとっては少々難しいことかもしれないが、自身の想いや考えを書き記し残す。これはとても素晴らしいことなのだ。「note」を含む各ブログサイトも、人気という面では動画サイトや写真サイトに押され気味のように見受けられるが、その存在意義や価値は別物であろう。その素晴らしい”表現し伝える場”が、今後もより理解され、活かされることで、人々の想いや願い、知識、認識が広く繋がっていくことを期待している。


文字で伝える ということ(終)


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