『虹の彼方に』言語の彼方へ
高橋源一郎『虹の彼方に』中央公論社 1984年
※本稿での引用に付されたページ表記とヘッダー写真は新潮社文庫版です。
著者なのか作中の人物なのか失念したが、勾留された際に活字に飢えていたので食品のラベルを繰り返し読んだ、という一節があったように思う。著者はそのような体験をへて言語の意味や文脈が現実から剥離し、自由に浮遊する感覚を得たのかもしれない。本書は言葉への止むに止まれぬ愛と煩悶によってうまれた、実験的実践的な作品と言っていいだろう。書けそうで書けない、ぎりぎりの小説。
簡素な部屋である。言葉の冒険の舞台としては好ましいし、見事な書き出しだ。たしかに冷蔵庫は3台では足りない。
小説の書き出しばかりを抜き書きしていたのは著者だったろうか。
車や人ではなくゾウだ。もしゾウが頻繁に通るような場所なら、それを追う狩人も出没しただろう。いずれにしても深夜、待つべきものはゾウなのだ。
この小説の根幹を指し示している。言語そのものを換骨奪胎するというか、言葉が背負っている〈当てはめられるべき文脈〉を無視して別の場所へ置いてみる試み。ストーリーはあるけれども接続の仕方が異なる。
以下は大切なので試験に出ます。
〈言葉/意味〉
一方が決まる ⇄ 他方は無限に拡大 双対的な関係性
〈総和/総積〉
さまざまな情報の集まり ⇄ さまざまな情報の共通部分
ちなみに人間の脳における活動結果の総和はゼロであるというようなことを養老孟司氏は書いている。
この小説の流儀に慣れてくれば、もう何が起こっても動揺することはない。
ゲーデルの不完全性定理:第一と第二がある。数学の公理は万能ではなくやがて矛盾が生じることを示す。表現力が格段に上がると綻びが出るよ、ということ。
困惑(裏拍・息をすう・消滅)→話始め(表拍・息をはく・生成)。
まず沈黙があり、話し始める。
ツーがあり、トンがある
息を吸うと肺は満ち、世界の方は空気が減る。
不足によって、満たされるものがある。
あるいは、思惑⇅困惑。
なぜ「虹の彼方に」の「に」が括弧の外にあるのか。その理由は「わたし」の娘が冷蔵庫にかけておいてくれたものだから。疑いなく良いものだ。娘の、しかも〈彼方そのもの〉なのだから。
その部屋にはベッドと冷蔵庫が3台しかないことはすでに述べた。
世界に確信できることなどあるだろうか。それを普段我々は忘れてしまう。ふと投げかけられた言葉に不意を突かれることになる。
世界に所有できるものなどあるだろうか。すべては世界からのレンタルに過ぎない。どんなものも手元から、離れ、壊れ、絶え、変わり、消える。
そう言えば、〈変わる=元のものが消える〉ということでもある。
所有と寂しさは、同義だ。
猥褻と寂しさは相反するだろうか。そうでもないと思う。激情や渇望の裏には、常に寂しさが貼りついているものだ。
この稀有な表現はソール・ベローによるものだと書かれている。どちらかというとトマス・ピンチョンが書いていそうだ。思わずメモしておきたくなる。
地図は制作されるのではなく、創作されるべきものなのだ。地図ができればあとは出発するだけ。真実は後からついてくる。進むのはきみだ。
第二話における「かつて( )であったもの」たち
かつてかれであったもの、かつて河であったもの、沈みつつあるかつて船であったもの、かつて夜であったもの、かつてスパゲティ・ボンゴレであったもの、かつて『ロッテリア』であったもの、かつてフィレ・オ・フィッシュであったもの、かつて『ぴあ』であったもの、かつて……であったもの、かつて元町であったもの。
名指すものたちから実態をはぎとり、過去のものとしている。記憶と現在は別のものである。記憶の延長線上に現在があるとする認識を疑おう。
始まりと終わりに 二枚の写真、深夜と朝
冒頭と巻末に掲載された同じ部屋の写真。深夜と朝。無人のベッド一台、壁に貼った写真一枚、閉まったドア、窓にはブラインド。
「おとうさん。さいごだからなにか言って」「おはよう! おはよう!」
印象的な締めくくりだ。私は最後の見開き写真をいつまでも見つめていた。
だから『アフターダーク』を読みおえたときも、すぐにこの場面を思い出した。朝で終わる小説はずるい。
読むことは書くこと。読めば書きたくなる、心で何かがざわめき始める。
もうきみの心は新しい何かを書き始めている。