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『ラカンはこう読め!』の、むずがゆさ

スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め!』(鈴木晶・訳)紀伊国屋書店 2008年

ジジェク:スロベニアの哲学者。難解なラカン派精神分析学を映画やオペラや社会問題に適用、独特のユーモアある語り口のため読みやすい。実際にはそのベースとしてドイツ観念論やマルクスの思想があるとされる。

本書:ラカンの分析や解説をするのではなく、ラカンを使って我々の社会やリビドーを示すことを目的としている、と明記されている。ラカンの思想を道具に、見立てをしてみようということだ。

日本語版への序文

まず、冒頭の「日本語版への序文」には以下の文章がある。

日本人は、他のどの国民よりも、仮面のほうが仮面の下の現実よりも多くの真理を含むことをよく知っている。この事実を受け入れるということは、死者として生きることを受け入れるということだ。

スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め!』p9

1950年代に西欧で絶賛された黒澤明『羅生門』を引き合いに、それは日本らしさが伝わったわけではなく単に西欧の感性にウケたのだと看破しつつも、「見かけの力」における共通点を指摘する。つまり、起こった事象をあげつらうことなく通り過ぎる姿勢、そこに文化の特性があると。それこそはラカンの言う〈大文字の他者〉であると。
(追記/ジジェク『パララックス・ヴュー』p314~p317に詳細な検討あり。)
この、あらかじめ日本人読者にむけて用意されたレールを進んでゆくと、「はじめに」に続いて第一章の幕が開く。

〈大文字の他者〉について

〈大文字の他者〉とは我々の代理的存在だろうか。たとえば差し替え、移し替え、置き換えの役割を担うような。それは恐ろしい隣人なのか。それは私に向かって謎に満ちた欲望を放射してくる。私からはその隣人のことが見えない、知らない。すなわち神たちの領域だ。ただし幻想することで、この謎を考えるきっかけは得られる。幻想とは「客観的主観性という奇妙なカテゴリー」に属し、「自分では知っているのに、知っていることを知らないでいる」状態である、という。心の底の止められぬ事故、未必の故意だ。

では一体〈大文字の他者〉とは何か。象徴的秩序の特命的メカニズムなのか、それとも根源的に他性的なもう1人の主体、つまり「言語の壁」によって私が永遠に隔てられている主体なのか。この矛盾の中にラカンの思想の発展における方向転換、 すなわち認識の相互主観的弁証法に焦点を当てた初期ラカンから、主体の相互作用を規定する特命的メカニズムを強調する後期ラカンへの(哲学的に言えば現象学から構造主義への)方向転換の兆候を見いだすことが、この袋小路から脱する容易な抜け道かもしれない。

スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め!』p77

ジジェクとて難解なラカンを明快に書き下ししているわけではない。用心深く迂回しながらじわじわと濾過ろかすることで「A」を示そうとする。
「象徴的秩序」とは言語や記号の空間のことだろうか。象徴界は言語と分別で構成された世界であり、想像界の自由な活動を容赦なく縦横に区分けしていく。


想像界/理想自我、〈小文字の他者〉

象徴界/自我理想、〈大文字の他者〉
(↓↑)
現実界/超自我、冷酷な指示者


〈大文字の他者〉はそれを土台としながら、個人を外部から規定するものとして我々の存在にオーバーラップしてくるひとつの影響力だろう。しかも自分の意思ではないと知っていながら、あたかも知らなさを装い、むしろ表面的に知らないことを前提として、自らが決断したつもりになって行動する。
足元から伸びる影ではなく、自らの内部に兆す得体の知れない白い影。

私たちは何かのきっかけで、謎を垣間見ることができる「裂け目」を得る。やがて実体験によって謎が解き明かされた瞬間に、落胆や失望、ショックとともに、裂け目は閉じる。外傷だけが残る。事後性。
…あの日見た不思議な光景、コイトゥス・ア・テルゴのように。
かくして人生は満たされないまま過ぎてゆく。

ラメラについて

第四章では、ラカンの興味深い概念である「ラメラ」が登場する。

ラメラはリビドーに実体を与える器官である。
(中略)
ラメラは純粋な表面だけの実態であり、物質の密度をもたず、無限に仮想的で、ひっきりなしに形を変え、ひとつの媒体から別の媒体に移りさえする。

スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め!』p109,110

『不思議の国のアリス』でおなじみのチェシャ猫、あの、姿が消えても中空に残る謎の「にたにた笑い」にラメラをたとえている。これは存在ではなく「執着」(リビドーによる)で、それは生物性を超えて生き続ける衝動(フロイトの「死の欲動」、「反復強迫」)であるという。→ 先述の「日本語版への序文」とおぼろげながら繋がっているのかもしれない。
(ドゥルーズの「器官なき身体」を連想させるが、関係はないようだ。)

ラメラの神話は、生きた存在が性差の体制に入ったとき(象徴的に規制されたとき)に失うものに形を与える、幻想的な実態を表している。この喪失を指すフロイト派の呼称のひとつが「去勢」である。したがって、ラメラはいわば去勢の肯定的裏返しだということができる。それは去勢されていない残余であり、性差にとらわれた生きた身体から切り離された、破壊できない部分対象である。

スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め!』p115

享楽jouissanceは、奪われているという前提のもとに導き出される。この予めの喪失が「去勢」であり、ラメラとは去勢されずに残ることが許された実態である。

ジジェクの指摘「〈現実界〉は全面的に脱実体化されている」とは、禅問答のようだ。人は自分の感覚器を通じて脳が見ているようにしか、現実を把握できない。それは人間側の現実(のようなもの)であって、真実な現実ではない。真実に触れるすべはない。
さらに深層へと導くように、ジジェクはアインシュタインの例を出す。物質が空間を歪ませるのではない、空間が歪んだ結果として物質がある、という因果の転換。(p127)

要するに?

本書を通じ、ジジェクがラカンを語る上で採用される手法は以下だ。
因果の反転、順序の逆転、知っている・知らなでいる、忘れる・忘れられる、幻想と現実、欠如と享楽、など。
まるでウロボロスの蛇たちのような獲得と喪失のくり返しは、ララングlalangueの実践。シェークスピア『リチャード2世』の引用がまとを得ている。王冠を譲りたいが、その王冠を譲る自分はすでに王座を剥奪されている、だからそれは委譲ではなくただの身振りでしかない。yesでもありnoでもある。(p124)
ラカンが示そうとしているもの、行きつ戻りつ、欠けては満ち、また欠ける。それは本書の態度と二重写しになっていると言っていいかもしれない。


わかりにくいラカン、本書でもわかりにくいジジェクの、なおわかりにくいこの記事の締めくくりとして、ジジェクの言葉をひいて今回は本を閉じることにしよう。
「 欲望を実現するためのいちばんの近道は、その対象=ゴールを避け、回り道をし、対象との遭遇を延期することである。」(p133)



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