コロナ禍、サリエンシーの重なりを考える
先日、ある喫茶店のオーナーと会ったとき、「この1年(新型コロナウイルスが流行してから)はどうだったか」という話題になった。
聞けば、その方は営業時間短縮により、もともと夜営業のみのお店だったため通常の営業が出来なくなったり、ライブが出来なくなったりした。しかし、営業時間を昼に変更し、ランチを始め、時間ができた分、新しいことに挑戦したりしていた。
その話を聞きながら、「ああ、私の大好きなお店はとても素晴らしいオーナーによってつくられていたんだ」とハッとし、とても感動した。上手くいっている話を聞けて嬉しかった。
私はというと、友達に会えなくなった分ひとりの時間が増え、今までで1番勉強したり、趣味の読書の時間が増え、いろんな作家さんと物語に出会えた。それが功を奏してか、将来の道がちょっと開けた。
しかし一方で、このコロナ禍をマイナスに捉え不満を吐露するばかりで何もしない人もいた。確かに、今まで上手くいっていたことや普通だと思っていたことが無くなったり止まったりした訳だから、不満やストレスは蓄積される。だが、私はその人の話を聞きながら、話に共感できず違和感を感じていた。
なぜ、違和感を感じるのだろうと思い父にこのことを話した。すると、父は「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る」と言った。これは井上靖さんの言葉らしいが、父曰く、実際よく努力していると思う人は「あれがやりたい、これがやりたい」と言っているのだと。中には努力を努力とも思わず好きなことを追求している人もいるが。
私はこの話を聞いてストンと落ちた。なぜ素直な気持ちで不満を聞けなかったのか、違和感とはこれだったのかと。
少し話はずれるが、ある対談記事に「サリエンシーの重なり」という言葉を見つけた。サリエンシーとは、その記事では『暇と退屈の倫理学』を参考に「精神生活にとっての新しく強い刺激」「未だ慣れていない刺激」と説明書きしてあった。つまり、「サリエンシーの重なり」とは、誰かと精神生活にとっての新しく強い刺激を共に実感することとなる。
このコロナ禍、今まで近く感じていた人を遠くに感じたり、遠くに感じていた人を近くに感じるということが、より顕著に表れた。
近くに感じたり、繋がりを強く感じる人たちに共通するのはこの「サリエンシーの重なり」のように思う。
諦めなければいけなかったことはあったが、それに立ち向かったという経験をした人に、その過程は違えど「サリエンシーの重なり」を感じた。
友情や仲間というのは、恋人や夫婦間にある愛とは異なり、「仲良しだ」などと関係性を示す言葉をいちいち口に出さないため、どこか曖昧さを孕んでいる。だから、疎遠になりやすい。
しかし、「サリエンシーの重なり」を感じた相手に対し、私はとても強い親しみを覚え、近くに感じた。そして、また会いたいと強く願った。
この1年で世界は変わった。私も変われたと思う。次の1年、世界はもっと変わるだろう。今回オーナーさんと話した時のように「サリエンシーの重なり」を感じれるよう、私も大きく変わりたい。まだまだ未熟な私ではあるが、最後に、この言葉で締めさせていただく。
逆境に負けず希望を語り続けよう。