【短編小説】キスをしよう
終わらない夜など無い。そんなこと分かっている。
ただ、この最高の夜の終わりはまだ訪れて欲しくなかった。
「踏切の音ってファに聞こえますよね」
最初はそれが、独り言なのか僕に向けて発せられた言葉なのか分からなかった。なぜなら、そこには僕と彼女しかいなかったからだ。
僕の肩くらいの身長しかない彼女は、黒いワンピースを着て電車が過ぎるのを待っていた。
電車のライトに照らされた彼女の顔は純日本人のような古風な顔つきだった。電車が通り過ぎる時、彼女のワンピースが花柄だったことに気づいた。
「踏切の音ってファの音に聞こえますよね?」
もう一度彼女がそう言った。
「えっ、と」
「ほら」彼女は僕の背負っているギターケースを指していた。
「ああ」
「すみません。もしかして音感とか無い方でしたか」
「いえ」彼女は少女のような顔つきなのに大人の女性の表情をしているからドキッとしてしまったのだ。
1週間前の約5分間を僕はもう何回も頭の中で再生した。
その度に彼女の付けていたイヤリングの形が分からなくなった。
その夜、僕は下北のライブハウスでギターを弾いていた。
ライブ後、バンドメンバーと居酒屋へ行き「もう一件行こう」とカラオケに行った。とても楽しい夜だった。
しかし、そのカラオケでメンバーがあるバンドの曲ばかり入れていった。僕の高校時代に組んでいたバンドの曲だった。
一人だけ県外へ進学する僕を「いつでも帰ってこいよ」と送ったメンバーたちは半年後には新メンバーのギターを加入させ、僕は「いつでも帰れる」場所をなくした。
そして、大学3年の秋に彼らはメジャーデビューした。まだ、夏の暑さが残った9月だった。
メジャーデビューをTwitterで知った僕は悔しさから「世の中そんな甘くないよ」と言いたかったが、代わりに「おめでとう」とLINEした。
翌日、親友だと思っていたボーカルの高橋から「なんか悪いな」と来ていた。
近々久しぶりに会わないかと言われたが、こんな自分を見せるのもメンバーみんなに会うつもりもなく断った。断った後にサインだけ貰っといて売れば良かったと考えてしまい、そんな考えをしてしまう自分が嫌になった。
こんな所でくすぶってたまるかと思ったが、果たして自分は本当にくすぶっているのか、才能が無いのか分からなかった。
「飲みすぎたわ」と言って僕はその場を後にした。電車はまだあったが、酔いを覚ましたくコンビニに寄り500mlの水を買って歩いた。
歩いているうちに酔いは覚めてきた。しかし、忘れたはずのバンドをより鮮明に思い出し、酔ったままの方が良かったと後悔した。
足元を見ながら歩いていると安心した。
踏切の音が鳴っていた。女の子が律儀にまだ渡れる踏切を渡らず手前で止まっていた。
僕が横に並んで15秒、彼女が話しかけてきた。もしかしたら、独り言を言った後に僕に気づいて誤魔化すために話しかけたのかもしれない。それはそうと、とにかく彼女から僕に話しかけてきたのだ。
その後、僕たちはどんな会話をしたのかどうやって帰ったのか、どうしても思い出せなかった。
僕はまた会いたいと思った。
少女のような顔をした大人の表情をする、彼女に僕は出会ったときから恋をしていたんだと思う。
彼女に会いたいと確信してから僕は毎日あの踏切に行った。
もしかしたら、あの夜は偶然あの時間で普段は違う時間帯に通るかもしれなかった。
彼女が学生なのか社会人なのか分からなかったので、通勤ラッシュの時間にもあの踏切に行った。
早起きは久しぶりだった。最初はきつかったが、だんだん規則正しい生活リズムを取り戻した。生活リズムを改善させるための出会いだったのではないかと思う程だった。
そして、出会った夜と同じ時間にも僕は踏切で電車が過ぎるのを待った。気づけばルーティンとなっていた。
しかし、彼女はその週も翌週も現れなかった。
僕は彼女の家がこの辺だと思い込んでいたが、そうじゃなかったのかもしれない。普段は別の所に住んで、あの夜は実家に帰っているところだった、友達の家に行くところだった、彼氏の家に行くところだった、かもしれない。彼氏いるのかな。僕は会いたいという気持ちに駆られ、あらゆる思考を停止してしまっていた。
彼女に彼氏がいたら、僕は何がしたんだ。何になりたいんだ。
出会いから約1か月が過ぎたその日も僕は相変わらず早起きをして朝の踏切で立ち、夜の踏切に立っていた。
僕はあまりにも踏切に立つ人の隣に立つ人として馴染み過ぎていた。気づけば、隣にいる人はあの彼女ではないと思っていたのだ。
遮断機が上がる。まだ動けないでいる僕を越えてあの彼女が歩いて行った。
とたん、僕は彼女に向かって駆けていた。「え」と驚いた顔で振り返った彼女は少女のようだった。しまった。僕はただ会いたい気持ちでここまで動いていたけど、その後のことを考えていなかった。
気づけば、「ファ、ファの音がします!」と言っていた。違う、そんなことを言いたくて再会を望んでいたのではない。
驚いた顔の彼女はすぐに表情を和らげて「そうですよね」と優しく笑った。大人の雰囲気を纏った笑顔だった。
聞けば、彼女は音大生でピアノを弾いてるそうだ。あの夜、踏切の音がファかソかで友達と揉めたらしかった。けど、その後この踏切に友達と来て「ファの音だ」と分かってもらい、仲直りをしたのだと。彼女の友達の踏切の音も二人で聞きに行ったそうだ。「友達の踏切の音はね、ソだったの」と彼女は嬉しそうに言った。
少し二人で歩き、二つ目の角で別れた。彼女は左に、僕はまっすぐ歩いた。別れの前、連絡先を交換した。Mai Kurodaと表記された彼女のLINEのアイコンはピアノを弾く姿の彼女だった。
「いいですね、ドレスも素敵」
彼女が少し恥ずかしそうに僕を見た。
「今度バーで弾くんですけど、来ませんか」と彼女が言った。
「行きたいです」
「じゃあ、また場所とか送りますね」
そう言って彼女は左へと歩いて行った。
翌日の昼、彼女からLINEがきていた。僕は彼女にまた会える。
3日後の木曜日の夜、僕は彼女がピアノを弾くというバーへ行った。何を着ていったらいいのか分からず、30分以上服を着替え続けた。だから、僕がバーに着いた時にはもう彼女はピアノを弾いていた。
彼女がピアノを弾く。ノースリーブを着ていた彼女の腕は、鍵盤を押さえる度にうっすらと筋肉が見えた。
優しく、だけど深く。彼女は一音一音を楽しみながら弾いていた。皆彼女の演奏にうっとりとし、バーの雰囲気は酔っていた。
演奏を終えた彼女は僕に気づき「ねえ、遅れて来たでしょ?」と話しかけた。
「ごめん。ちょっといろいろあって」僕は嘘をついた。
「まあいいけど」と彼女は僕のついた嘘について言及しなかった。
僕たちはバーで一杯飲み、ファミレスに行った。二人ともお腹が空いていたのだ。
ファミレスでパスタにするかハンバーグにするか迷っている彼女は少女のようで可愛かった。
「僕もどっちも食べたかったし、半分こしようよ」僕が言うと、彼女は嬉しそうに「じゃあ、決まりね!」と言いながら呼び出しチャイムを押した。
バーでピアノを弾く彼女は大人の雰囲気があったのに、今僕の目の前に座っている彼女は少女のようだった。
食事が運ばれるまでの間、話は尽きなかった。食事中も、「おいしい、おいしい」と言いながら話してしたし、食後もずっと僕たちは向かい合って話していた。
話題はお互いの大学のこと、アルバイトなどありふれた大学生の会話だった。
彼女の大学はお嬢様みたいな人ばかりで、僕の大学はオタクみたいな人ばかりだった。
彼女は児童館で子どもの面倒を見るバイトをして、僕は雑貨屋でバイトをしていた。
僕たちは同い年にも関わらず、なにもかもが違った。唯一同じだったことは大学に気の合う友達がいないことだった。しかし、それは寂しいことで、僕は口に出さなかったし、彼女も口に出さなかった。
電車に乗って一緒に帰った。ファミレスでほとんどを語り尽くしてしまった僕たちは会話が途切れ沈黙になってしまった。気まずくなり、僕は話題を探した。しかし、何を話せばいいのか分からなかった。
だんだん肩が重くなってきた。彼女の頭が僕の肩に乗っていた。うっすら香るシャンプーの匂いは甘く、僕をどきどきさせた。
翌週、彼女は僕のアパートに来た。「岩手出身だから広島のお好み焼き食べたことない」と言う彼女に僕がお好み焼きを作ってあげた。「広島の人はみんな焼けるの?」と訊く彼女は丸い目をして僕を見ていた。
「みんなかどうかは分からないけど、うちは家でお好み焼き焼いてたからできるよ」
「いいな~。こんな美味しいもの家で食べられるなんて」
僕はずっと故郷を好きになれなかったが、彼女が羨ましがるととても誇らしく感じた。
その次の週は、たこ焼きを二人で作って食べた。ふざけて、いろんなものを入れたので、口の中はだんだん変な感じになった。食後にプリンを買っていたが、食べ終わる頃にはプリンなんてとても受け付ける口ではなくなっていた。
たこ焼きを食べた次の週、僕はプリンを持って彼女のアパートに行った。これまでは僕のアパートに彼女が来ていたのだが、今日は僕が彼女のアパートに行った。
女の子の一人暮らしのアパートに行くのは初めてのことだった。彼女の部屋に入るとビーフシチューの匂いと女の子の部屋の匂いが混じって、僕をとても安心させた。
彼女の作るビーフシチューは野菜が大きく僕をびっくりさせたが、とても美味しかった。
「どう?」と不安そうに僕を見る彼女の目は黒かった。
「美味しいよ、とっても」僕は次々に大きく切られた野菜を口に運んだ。3口目で口はいっぱいになってしまった。
「嬉しい」と彼女が笑った。少女のようでも大人の女性のようでもあった。
ビーフシチューを食べ終わり、僕たちは片付けをしていた。彼女の台所は低く、二人立つと狭かった。
狭いからか、彼女と何度も腕がぶつかった。ビーフシチューの匂いのなくなった彼女の部屋は女の子の部屋の匂いに戻り、いよいよ僕はどきどきしてしまった。
彼女が「ごめんね、狭いよね」と笑っていた。
「ううん、大丈夫」僕が返すと目が合った。
彼女の目は僕を見ていた。目を逸らせなくなってしまい、僕たちは見つめあい、キスをした。
下を向いて食器を洗う彼女がたまらなく愛しく、僕は頬にもう一度キスをした。
そして、その夜僕は彼女のアパートに泊まった。
僕たちの関係は曖昧になってしまった。彼女は僕の彼女ではなかったし、僕は彼女の彼氏ではなかった。友達ではしないようなことをしてしまった。
それから1週間、僕たちは会わなかった。
彼女はコンクール前だからと言っていたが、それは本当なのか、僕に会いたくなかったからなのか分からない。
そして、1か月が経った。とても長い1か月だった。僕は彼女のそばに居たかった。これが愛とか恋とかの関係でなくても彼女の目で僕を見て欲しかった。
彼女の肩まで伸びた髪が揺れる度、僕は幸せになってはいけないと揺らいでいたが、彼女といつまでも一緒に居たかった。
彼女を幸せにしたかったし、彼女に幸せにして欲しかった。
二人で幸せになりたかった。
LINEに既読が付かず返信もなかったので、彼女のアパートへ行くことにした。彼女の部屋の前にあった傘がなくなっていた。今日は雨予報ではない。
少し部屋を覗くと、部屋は消毒の匂いがした。もう女の子の部屋の匂いではなかった。
隣の部屋のドアがガチャっとなった。
「あの、この部屋の黒田さんて…」
「ああ」やせ形の男の人は眼鏡越しでも眠そうなのが分かった。
「なんか、死んだらしいよ。近くの踏切で」
僕は何も言わずに、アパートの階段を下りとぼとぼと歩いた。
死んだ?
彼女が?
いつ?
なんで?
僕は信じられなかった。
それから僕は寝続けた。昼も夜も寝た。あれだけ早起きには慣れ生活リズムは良くなっていたのに、朝起きるとそれだけで憂鬱だった。
遠くで踏切の音が鳴る度に耳をふさぎ、世界中のファの音を僕は嫌った。
僕はベッドの中で彼女のことを考えた。
彼女のこと以外はどうでもよかった。
僕はまず、彼女の顔を思い浮かべ、彼女の笑顔が魅力的だったこと、彼女の目が美しかったことを思い出した。
出会いから最後の夜まで一つずつ思い出していった。
彼女とキスをしたとき、彼女の唇が濡れていたこと。僕の手を握る彼女の手は小さく柔らかかったこと。僕より白い肌で僕を包んだこと。
彼女は僕よりも小さな体だったのに、僕よりも勇気と自信があった。僕を受け入れてくれ、僕の周りの下品な人たちを笑ってくれた。
もう会えない彼女のことを僕は何度も思い出した。
思い出す彼女は全部違う表情をしていた。僕はついに、涙も出なくなった。
彼女はあの世でもピアノを弾いているのだろうか。
そこにピアノはあるのだろうか。
ピアノのことを考えていたら、コンクールのことを思い出した。ネットで調べると出てきた。
僕は、そこにいないはずの彼女を探してコンクールを見に行った。コンクールの出場者は皆素晴らしかったが、彼女程の魅力を持った演奏者はいなかった。
僕は演奏が終わると、しばらく会場のトイレで泣いた。久しぶりに涙が出た。
鏡に映った細く赤い目が僕を見ていた。
彼女はこの世で一番美しい目をしていた。