米国のやり方は日本に合っていない説を真面目に考えてみる
私は日米を2000年から行ったり来たりし、通算で19年ほど米国に住んでいる者です。日本育ち、会社員、副業で起業して10年目。2児の母親です。米国籍を取得し日本国籍は離脱しております。大学や上流社会の保護もありません。日系コミュニティーの中で暮らし永住権のまま住んで高齢になったら日本に帰ればいいやの人でもありません。つまり一般的な米国の日常に晒されている人です。自分のアイデンティティは日本生れの日本人でありますが、同時に米国人や他の移民の立場も重なる位置にいます。政治的には中道、中庸です。
さて。日本で米国のような自由化、規制緩和、差別解消の流れがある度に「米国のやり方は日本に合っていない」「日本には日本のやり方がある」という意見が出てくるのを見ます。これは考えるものがあります。
確かにそう見えますから。
ただこの手の意見は、既得権益のある日本人男性やそれに頼る女性からすれば現状維持になりますので、自分たちに有利かつ社会的立場が強い人の声が大きいだけというようにも見えます。なので真面目に考察してみようかなと。
というわけで日本にありがちな「移民なんか入れたら悪者ばかりだから日本が壊れる」「障がい者なんかいない方がいい」「女性は社会に出て来るべきではなかった。家の事をやっている方が女性たちも幸せだ」「競争社会は弱者が生きられなくなる」の意見から考えてみます。
米国も残念ながら今でも移民に対する偏見はものすごくあります。でも実際は保守的な米国人でさえ、私がどういう人か知ると考えを改めます。「あなたは特別」の方に置き換えてしまう人もいますがね。この現象は私が働く建設会社の他の移民からもよく聞きます。辺鄙な土地での工事で最初は差別的な目で見られるけれど、しばらくすると歓迎ムードになると。人間ってそういうものなんですね。
結局は慣れ。
そういう研究もあります。
スペイン語で会話する移民たちを白人ばかりの郊外行きの通勤電車にわざと乗せて3日したら排他的な意見が増えたけれど、10日間晒したら少し和らいだというもの。晒すと慣れるの実験。たぶんこれが都会の方が民主派が多くなる理由でしょう。
私の経験からすると移民は行動力があり学ぶ力も根性もある人が多いです。扱いが悪ければ人間はグレます。移民かどうかとはまた別。
ちなみに私は日本での方がグレていました。笑
この現象を日本に当て嵌めると、恐らく今は偏見増加中から、だんだんと慣れに入ってきたところなんだと思います。もちろん最初から不法滞在や犯罪目的の人を許しては他の真面目な移民に失礼なので阻止する必要はありますが、日本に合っているか合っていないかで言えば、
合っていると思います。
考え方次第。日本という土地が信仰みたいな国ですからね。外から入ってきたものも吸収して一部になっていく。むしろ米国より素質あるんじゃないかと。
米国は障がい者差別は日本と較べたらだいぶ無いです。もちろん行き届かないところはたくさんですけれどね。私は重度自閉症児の母親ですので日米の差を知っています。日本はやまゆり園での犯罪を肯定するような人も多く優生思想が強いです。そんなところで安心して子育てできると思いますか?
これは少子化の原因の大きな一つでしょう。
米国は低福祉で日本は高福祉ってのも言われますよね。
いやいやいや。だったら私は米国で破産しているはずです。
逆に日本にいたら「家族が一生付きっ切りで面倒みろ。税金の無駄。社会からいなくなれ。」みたいな立場で貧乏だったと思います。高齢者介護もこんな感じですよね。中年女性の社会復帰も難しい。そしてそれでも文句を言わないのが美徳のような風潮。
米国、実は手当ては意外と厚いんですよ。
ただ辛抱強い手続きを踏まないといけません。残念ながらこのノウハウに手が届かない層がいる、こぼれてしまう人がいる、または何らかの理由で拒否する方もいる(これも自由)ため、ニュースやドキュメンタリーではそういうところにスポットライトが当たりがちで、助かっている人の方は報道されません。福祉がしっかりしている州はノウハウに手が届かない人々を救済するシステムまであります。
おかげで我が家は十分に働け、消費し、年金も税金も払い、障がいのある子にも定型児にも良い教育を与える事ができております。好循環です。これが福祉です。福祉・教育の分野が日本に比べて高学歴で賃金が良いのもこういう背景があるわけです。日本は「生産性が~」の人も多いですが、それこそ生産性ありまくりじゃないですか?
では日本にこれが合っているかどうか。
現状では無理でしょう。
家庭に押し付ければいい、我慢しろの発想では。
どうしてこんな違いがあるかというと、最初にに挙げた「女性の社会進出」「競争社会における弱者の救済」も関係しますが、米国はアドボカシー活動が盛んなのです。
私はこの状況になるまでは知りませんでしたが、同じような立場にある人や経験者、その業界の人が問題点を話し合って提言し、政治に働きかける活動の事です。もちろんソーシャルワーカーや弁護士、法律に詳しい方がリードしている事は多いですが、参加するのは専門家でなくてもいいんです。
これは痴漢問題のアドボカシー事例に関する記事ですが、プロセスが解りやすいのでここに貼ります。
もっと個人的なレベルのアドボカシーもあり、例えば自治体に困りごとを相談する時にサポートしてくれるアドボケイトもいます。講習を受けて自分がやる事もできます。有料でもできます。
政治に対し市民が受け身じゃ無いんです。
要求しまくりで当たり前。その要求が社会の利益になる事を伝える技術を市民が有しているんです。こういうのは日本の教育ではあまり無いような。
地元の議員さんは一軒一軒歩いて回って意見を聞きに来てくれる人もいます。いつでも連絡くださいと。そして本気なんですよ。障がいのある子の事で困り果てた時に、あの時に話を聞いて頂いた者ですとメールすると、直接我が家に電話をかけてきてもう一度話を聞き、自治体に働きかけてくれたこともあります。もちろん今もその方に投票しています。
これが米国の民主主義。カルチャーショックでした。
というわけで米国式を日本でやるには、この辺の改革から始めないといけないんじゃないかと。
異次元だった。