捨て猫が世界一かわいいねこになるまで
コロナ禍が始まった年の初夏、母はわたしにこう言った。
「ねこを引き取りたい」
「そんなアホな」
命っていうものは重くて、引き取るにはそれなりの心構えが必要だ。
夜鳴きしたり、家の中をぐちゃぐちゃにしたり、家を留守にしづらくなる。楽しいことばかりではない。
今はコロナ禍だからそういう気持ちになるかもしれない。が、終わったらどうする?
その時のねこ、あねこは、今、わたしの横で幸せそうに寝てる。
*
あねこは、捨て猫だった。
街猫活動の場所で、段ボール箱に入って捨てられていた。
ボランティアさんは母の友人で、「子猫を保護した」という話は、自然に母の耳に入った。
里親を探しているとのこと。
母以外は引き取ることに大反対した。
わたしの家は、保守的だ。母以外。
今の生活に影響が出るのも嫌だし、糞尿のお世話もしなくてはいけないし、コロナ禍の気まぐれではないのか、と母を攻め立ててた。
命というものは、おもちゃじゃない。
今思えば、わたしは"命の重さ"という責任から逃れるため、そう言っていたように思う。責任を負いたくなかった。
しかし、わたしは限りなく動物好きなので、母に丸め込まれて、保護された子のお顔を見に行くことにした。
――なんてやせっぽっちなんだろう。
これが最初の感想だった。
わたしが好きな猫の柄は、キジ。しましまがかわいい。
でも、その子は、黒白柄で、とてもわたしが好きな柄ではない。
お顔もピンとこなかった。
(今はあねこが世界一かわいいと信じて疑わない。柄も世界一)
でも、ふわふわでキョドキョドしていて、小さくて「すぐに死んでしまわないか」と思ってしまい、わたしはその子にそっと触れた。
なんやかんやあって、その子を引き取ることになった。
母は「人生で一度ねこと暮らしたかった」と言い張り、「じゃあ、お世話をお願いね」という形である。
責任を負いたくなかった、わたしの小心者さが際立つ。
そして、家に来てしまえば、家族はあねこに夢中になった。
小さな野生の獣――こういう表現がしっくりくる。
数日間は段ボールの小屋に引きこもり、ご飯も食べず、本当に心配した。
おもちゃを出すと、人間への警戒心はどっかに行き、永遠に駆けずり回って、「小さいのに大丈夫か!?」と心配した。
小さなからだの生命力を信じられなくって、寝ている時も息をしているか頻繁に確かめたし、毎朝「生きてる!」とほっとした。
子供らしいやんちゃさで好奇心旺盛に走り回って、そこらじゅうの隙間に入り込み、「どこ!?」と人間を困らせた。
家の整理整頓が急務となった。また、コロナ禍の影響もあって、あねこをひとりにしておくことはなかった。
あねこは家の中をぐちゃぐちゃにすることはなかったし、夜鳴きという夜鳴きもあまりしなかった。
小さなころから、非常に賢い子だった。
懐くことはなかった。
個人意識がとても高く、(ご飯とおもちゃ以外は)自ら人間に近づくことはなく淡泊で、「こんなものか」と思った。
膝に乗る抱っこが好きなねこ、みたいなのをメディアで見ていたから、最初は期待したものの、そういう子ではないと悟った。
夏の夜は、暗闇の涼しい玄関先で、じっと孤独を愛しているように見えた。
大抵、あねこはひとりになれる静かな場所を探し出し、長い時間をそこで過ごしていた。
でも、家族はみんなあねこを溺愛していた。
"世界一かわいいねこ"だ。
やせっぽっちの貧相な子猫は、どんどん立派で美しい猫に成長していった。
こんな子が、すりすりごろごろになるものだから、生き物というものは分からない。「懐くのが良い」とは、口が裂けても言わないけど。
小心者だったわたしも、少しは肝が据わった人間になれただろうか。
「仕方ねえな」と悟りを開いたお顔で、抱っこを許してくれるあねこを見ていると、どうもあねこにコントロールされているような気がしてならない。
細かいことは抜きにして、一緒に過ごす時間がずっと続いていけば、もうそれでいいんだ。
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