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スピリチュアルと現実の狭間
現代科学で立証されていないものを全てスピリチュアルと呼ぶなら、この世の中のほとんどはスピリチュアルでできている。
と、ガチ理系の私は言いたい。
現代科学は、この世の中の氷山の一角にもなっていないかもしれない。
「客観的に、誰から見ても同じように観測される」
哲学者カントのこの提唱は、スケールが大きいものには適用されるけれど、量子力学的なスケールの小ささの場合、観測するという行為が観察される対象に影響を与えるパターンがある。
現代科学は人生の解法にはなりえない。
人生ほど、主観で語られるべき対象は他にないからだ。
カントの『純粋理性批判』を読んだ時、私ははっとした。
『純粋理性批判』を読む前の私は、スピリチュアルを嫌悪していた。
目に見えるものしか信じなかった私は、そういった不確実なものを視界に入れなかった。
結果として、自分の心や感覚を、私は視界に入れなかった。
そんな私が、心身を酷く害したのは、想像しやすい。
「いい加減にしろ」
当時、一日中恐怖に襲われていた私は、何かにそう言われたようにも感じるし、
「こんな体験ができて嬉しいだろう」
とも言われていたように感じる。
心身がメタメタになったところから、試行錯誤により回復していく作業を、私の高い所にいる『私』は非常に喜んでいた。
(地べたを這いずり回る私にとっては、偉い迷惑なんだけど…)
一昨年の秋、狂った体で空を見て、「あまりにも綺麗すぎる」と感じた私は、「私の目に見えているものが全てなわけではない」「目に見えないものを蔑ろにしていた」と雷に打たれ、恐怖の一週間を過ごした。
今まで見てきたものが、物事のあくまで一面であることに、30数年生きてきて、やっと気づいたのだ。
そこから、震える手で、私はスピリチュアル情報を調べ始めた。
思考で理解できない、あまりにも奇妙なシンクロ現象が起き、ゾロ目(適当に買い物をしたら9999円)に恐怖し、変な夢を見て、家電を壊したあの1週間は、一生忘れられないと思う。
ガチ理系の私は、嫌悪していた対象に手を付けることを、恐れていた。
常に戦いだった。
そして、スピリチュアルなんてものは、人によって言うことが全然違うし、悪徳商法めいた情報も多く、「なんて質が悪い」と当時は怒っていたものだ。
今は、スピリチュアル全般に対して、知識はある。
アセンション、スターシード、ツインレイ、宇宙なんちゃらとか…。
でも、私は、自分で感じたものしか信じない。
それくらいじゃないと、色んなものが溢れるスピリチュアル界隈、自分の軸を持って生きていけないでしょう?
私は、私の直観を信じている。
私は、私の上の方にいる『私』を掴む感覚を、信じている。
この人は、私がのたうち回って苦しんでいる時に、喜んでいた。
そして、私が回復しようと試行錯誤しているのを、これ以上なく喜ぶ。
「この経験をしに来たのだ」
「この経験ができる状況を作り出して30数年、ようやくこの時が来た」
スパルタコーチみたいなもんだ。
さて。
私はこれからどうしよう。
それが今の、一番の問題なのだ。
経験したことを、どうやって表現しよう?
それを模索するため、今日もSNSに私は出没する。