記憶の着陸 ~SPIRAL LIFEと彼の30年~
彼は30年前のことをどうにかして思い出そうとしていた。記憶というものは薄れていくもの。それは彼も十分にわかっている。しかし、ここまで薄れるとは想像もしていなかった。だからこそ、思い出そうとしていた。
高校生であったことははっきりと覚えている。通っていたのが男子校であったことも覚えている。だが、どうだ。クラスメイトは誰だ? 担任は誰だ? 乗換駅はどこだ? まったくもって覚えちゃいない。それまで思い出そうとすらしていなかったのだから、当然といえば当然のことだ。しかし、不思議なものだ。何かに触れると記憶の断片が顔を出してくる。なんてことのない火曜日。記憶は何食わぬ顔をして目の前に現れた。
彼は当時スパイラル・ライフというバンドが大好きであった。それは明確に覚えている。いや、覚えているも何も、現在進行形なのだから忘れるはずはない。30周年記念として世に放たれた5枚組のCDボックスセットは当然発売発表となったその日のうちに予約した。そして、遂にそのボックスセットを受け取れる日がやってきた。彼の中ではもう興奮状態が続いていた。
仕事終わりにボックスセットをコンビニエンスストアへ受け取りに行った。18時ちょっと前のことだ。レジに列はなく、スムーズにレジの女の子に受取の旨を伝えることができた。「少々お待ちください。」そう言って、その女の子は裏手へ回り品を探しに行く。しかし、待てど暮らせど、戻ってこない。どうした? すると、リーダー格であろう男性も裏手へ小走りに向かう。一体どうしたんだ? しばらくすると隣でレジ業務を行なっていた男の子も裏手へ向かう。何が起きているんだ? 品物がないのか? どういうことだ? そんなことが頭の中でぐるぐるとバトンリレーを続けていた5分間ほどをあっさりと覆すかのように、男の子が「こちらですね」と商品を運んできた。彼の手元にそれが受け渡された。その瞬間だ。
30年前のことが一気に蘇ってきたのだ。
彼はスパイラル・ライフのコピーバンドをやっていた。担当はドラム。しかし、ギター片手にコード進行を起こしたり、コーラスやハーモニーの構成を考えたり。コピーする上での礎をバンド内で築き上げていた。
1994年7月19日(発売日前日、つまりはフラゲっていうやつだ)、2枚目のアルバムを駅そばのレコードショップに買いに行ったこと。そうだ、井上睦都実のアルバムを一緒に買ったんだった。生涯の友となるクラスメイトと部屋でタコハイを飲みながら、そのアルバムをひたすらに聴き入ったこと。タコハイを購入した酒屋に制服のまま足を運んだことも思い出した。「飲みすぎに注意しなさいよ」と柿の種をおまけしてくれたお店のおばさんの笑顔も一緒に。そして、1994年という時代がおおらかな時代であったことも。
これってもしかしたら、いまこの時に青春というものがまた始まっているのではないか?そんな気持ちもうっすらと感じ始めていた。
家に帰るや否や、床に積まれているプリアンプの電源をつけ、プレイヤーにCDをセットした。5枚のうちどれから聴こう。それは予約を完了したときにはすでに決めていた。DISC4に収録されているデモ音源6曲だ。初めて耳にする音源を前に気持ちは高まる一方であった。
そうそう、この高揚感。それは30年前と何一つ変わっていなかった。
11曲目を選択し、再生を開始した。聴きなれた、いや、慣れなんてものじゃない。血や肉、骨へと変化している楽曲の知らない姿をその瞬間に感じていた。この喜びをどう表現すればよいのか。そんなことを考える余地もないくらいに興奮という荒波が飲み込んでいく。ギターリフ、ドラムパターン、ハーモニー。そのすべてがこの時点で完成している。“LIFE IS SPIRAL, ANYHOW?” その言葉は、螺旋階段をぐるぐると滑るような彼の人生を総括しているように感じていた。
12曲目に収録されている「MOON RIDE」の冒頭のギターが鳴らされた時にはもう、ティーンエイジャーだった彼がそこにはいた。発表されたものと違う歌詞、まだ初々しくもソリッドな歌声、そこに重なるコーラス。ワウペダルの刻むリズム。彼の中に蓄積されていたギターロック然としていた姿とは違う、マンチェスターの空気をまとったインディ・ダンス的サウンド。ああ、こういうサウンドも青春だった。ジーザス・ジョーンズとかEMFが大好きだったし、シャーラタンズとかも追いかけていた。BEAT UK、毎週観てたなあ。なんてことまで蘇ってきていた。
ふと、スマートフォンに目をやると生涯の友であるクラスメイト、そう、一緒にコピーバンドをしていた友人からメッセージが来ていた。「スタジオに入って、いや、出来なかったら、データ交換でもいいから、一緒にRASPBERRY BELLEをやらない?」
あまりにタイムリーなメッセージに驚きを隠せなかった。メッセージを続けてみると、やはり友人も同じボックスセットを購入していたようだ。
友人の中で呼び戻された記憶と彼の中で蘇った記憶は、30年という時を超えた記憶へと軟着陸をしていた。その時、スピーカーから流れていた曲は、まさに“RASPBERRY BELLE”であった。
ふたたび新しい旅に出る。そんな言葉がこの5枚組には添えられている。30年という時を超えて、聴く者すべてが新たな旅に出ることだろう。もちろん、彼だってそうだ。
スパイラル・ライフよ、ありがとう。
そんなことを心の中で思った彼の新しい旅はその時から始まりだした。
という風に物語的にだらだらと書いてみたが、これは発売日前日に僕の身に起きたこと。そうです、これは物語の形を借りたただの日記っていうやつです。しかし、高校時代の友人と同じ日に同じことをしているなんて、素敵じゃないですか。青春ってやつですよ、これは。