自分のこと徒然その12ー人の心は複雑で、何重構造にもなってるらしいー

 おひさしぶりです、さりままです。こちらのシリーズ、かなり放置してしまってます。もう秋ですね。
 この夏は、自立した子どもたちがそれぞれの理由で実家に戻ってきたり、他にも人の出入りが増えたり、身辺慌ただしくなって、書くことに集中する時間と気力を喪失気味でした。でも、楽しみに読んでくださる方が少数ながらいてくださるので、細々でも更新し続けようと思います。

 書く内容も、ちょっと佳境に入ってきて、正直、エネルギーいります。でも振り返る作業って大切。今の自分がどういうところを通ってきたかって、けっこう記憶の彼方に捨て置かれてたりする。それを思い起こして確認する作業は、人生に対して、関わってくれた周りの人々に対して、そして私の愛するイエス・キリストに対して、謙虚な思い、感謝の思いを起こさせてくれます。

 さて、今回は、ピリカと一緒に日々を過ごした頃に、具体的にどんなことを思い起こし、どんな心の傷に向き合うこととなったか、どんな思い込みによって自分で自分を苦しめていたか、思い起こして書いてみようと思います。

 人の心の複雑さ

 前回は、音楽との関係から少し離れて、両親との関係から受けていた心の傷や歪みについて書いた。両親それぞれによって、彼らが意識したにせよ無意識だったにせよ、子どもであった私は傷ついていたのだ、という事実と向き合い、認め、それを「もう一度ちゃんと」悲しんだ上で、彼らを赦す選択をした。それによって私の心は軽く、明るくなった。そして、創造主である神さまが決めた秩序が、「親を敬う」ことであるというシンプルな理由で、彼らを侮蔑したりジャッジしたりしてきたことが神さまの前には罪であり、その罪ゆえに自分で自分を縛り、苦しめてきたことを知った。そして、神さまの前にその罪を悔い改めて、赦しを受け取った。このプロセスは決して簡単なものではなかったが、結果的に心が楽になり、「自分は自分でいい」という自己肯定感が高められた。

 しかし、人間の心というのは、何重構造にもなっているようで、ひとつ癒されて解決したと思うと―いわば、一皮むけたと思ってもーその下にはまだ、傷ついたりゆがんだりしたままの古い構造がそのまま残っているのを見せられる。私の場合、音楽との関わりという領域でこれが明らかになっていった。

 なぜ音楽と距離を置いてしまったか

 以前の記事に、ピリカにピアノを習い始めて、楽しくて、うれしくて、わくわくしつつも、すっかり大人になってからでは、思うようにならないことがたくさんあることがストレスになったことにふれた。それがこちら ⇓

 自分がこんなにも音楽を奏でることに興味を持てることにまず驚いていた。同時に、自分は、本当はこんなにピアノが好きだったんだ、と認めることによって、 次は「それならなぜ今まで距離を置いてきたんだろう」と自問するようになった。

 思えば、生まれ育った実家では、「クラシック音楽こそ音楽」という価値観が家全体を支配していた。兄は中学生になって洋楽にはまり、ロックをやるようになり、エレキベースを弾くようになったが、それは当時の我が家では、どこか肩身の狭いような,、兄が異端児であるかのような雰囲気だった。テレビの歌番組ー当時とても人気番組だった「ザ・ベストテン」などーを観るのも父がいない時だけ、それでも遠慮がちに。すっかり大人になり、生まれ育った家庭から離れて何年も経って、ようやくその呪縛のようなものに気づいた、とでも言おうか。

 「自分は、こういう音楽が好きだった。若い頃、遠慮がちに聴いたり、『友だちにたのまれてしかたなく』といったスタンスで時々関わったような音楽をほんとはやりたかったんだ」と気づかされた時、遣り場のない怒りや失望を覚えた。そしてその無念さ、くやしさ、いたたまれない思いを、親への怒り、恨みとして処理しようとした。しかしそれは、本当にエネルギーの要る、精神が疲弊してしまう作業だった。

 けれどそんな、自分では「大人げない」と恥ずかしく思っている葛藤も、ピリカとは分かち合い、話し合えた。他の人には言えないと感じるカッコ悪い、子どもじみた感情、「大人げない」と一笑 に付されそうな後悔、ないもののように扱われ、癒やされるチャンスもなかった悲しみなどなどを、思い出すごとに彼女には打ち明けた。最初はおそるおそる、相手の反応を試すようにだったが、次第になんでも話せるようになった。不思議なほどにピリカは「わかるよ」「それは大変だったね」などと共感しながら受け止めてくれたからだ。彼女のほうも、「実は私もね」と、他の人には話さないような、内側に秘めてきた思いを分かち合ってくれた。生まれ、育った環境は違ったが、生きてくるなかで経験した出来事や、その時抱いた感情に、不思議な共通点があるのをお互い見出した。なので、自分だけが一方的に助けられている、あるいは迷惑をかけている、という感覚を持たずに済んだ。対等だ、と感じることができたのだ。楽だったし安心だったし、幸せだった。忘れたように扱われ、心の奥底の小箱にひっそりとしまいこまれ、鍵を閉めたままだった傷や痛みの扉が、ひとつずつ開かれていった。

 音楽との関わりから受けた傷によって信じた嘘

 たとえばピアノにまつわる思い出。
 6歳の時のピアノの発表会の時のことは、こちら ⇓

 当時、とにかくうちの両親は、ピアノの生徒さんたちについて、子どものいる前でも批評的な話をよくしていた。「Aちゃんは才能がある」「B君は才能がない」「Cちゃんは才能はあるけど○○○」みたいな話を、聞くともなく聞くことが多かった。そして、私は「あなたには才能がある」とほめられたことがなかったので、幼い日のどこかの時点で、「自分は才能がないんだ」と失望したのだと思う。

 子どもの頃、母の妹である叔母にピアノを習っていたことは以前に書いたが、この叔母がまた格別厳しかった。元々好きで始めたわけではない、練習嫌いな私は、練習するふりはしても、真面目に取り組むわけではない。だから、ほとんど上達することなく一週間を終え、レッスンに行く。当然のように、前回注意されたところをまた同じように間違える。何度も何度も同じ間違いを繰り返すので、叔母もイライラしてちょっといじめのような注意を与える。そんな繰り返し。ますますピアノは嫌いになり、「私には才能がない」と確信を深める(練習しないから当たり前なんだけどね)が、そのことをどこかで恥ずかしく思ったり、悲しく思ったりしている自分がいたことには、大人になってから気づくのだ。

 歌うことにまつわる思い出。

 小学校の音楽発表会で、全校児童がクラスごとに歌と楽器演奏を発表するのが毎年あった。5年生の時の発表会の日の夜、母と2人の妹が、私の歌い方を真似して大笑いして盛り上がったことがあった。私が感情をこめて、からだを左右に揺らしながら歌っていたのが面白かったらしい。母は可愛いと思ったのだろうし、妹たちも悪気はなかったかもしれないが、私は「バカにされた」と思い、非常なショックを受けた。「人前で感情をこめて一所懸命歌ったらバカにされるから、もうそんな風に歌わない」と心の中で誓ったのだと思う。

 中学生のころには、実は1年余りだったか、母のお弟子さんに声楽を習っていたこともあった。ピアノよりは面白くて興味が持てた。まあまあ好きだったのかもしれない。そんななか、音楽の授業で、授業時間中に実技テストがあり、一人一人みんなの前で課題曲を歌わねばならないことがあった。私は、習っているように姿勢を整え、歌い方にも気をつけたのだが、数人の女友達が私を見てくすくす笑っているのに気づいた。あとで、私の立ち姿勢を真似しているのにも気づいた。

 「人前で歌うとバカにされる」。そういう恥意識が上塗りされた。
 おもにこのふたつの出来事によると思うのだが、「私には人前で歌う資格がない」といった思い込みが醸成されたように思う。

 次なる解放のステップへ

 このような、執拗に心にこびりついた信念、思い込みから「心が癒され」、「本来持っていたものが回復して機能する」ようになるのには、ただ単に、ピリカとの「友情」だけでは十分ではなかった。確かに彼女の存在が、「見ようともしなかった、あるいは気づきさえしなかった古い傷」に目を向ける勇気を与えてくれた。これはまちがいなく彼女との友情がきっかけになった。
 けれど、どうしようもない後悔、音楽にまつわる(今思えば)くだらないプライドとコンプレックス、逆恨みと呼んでもいい、親に対する反抗心とジャッジする思い etc と取り組み、これらの重苦しい感情から自由になるのには、もう一段階、「親との、そして神との関係の回復と成長」が、私には必要だった。

 次回はようやく、どうやってこの痛みから解放されて自由を得たか、書きたいと思います!

トップ画像には「T字路を左に」さん https://note.com/t_junction のすてきな写真をお借りしました。ありがとうございます!


 

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