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崩れ落ちたあとに立ち現れた神髄



一年半ほど前、それまでやってきたことがわたしの中で一気に終わっていった。
好きだと思っていたことにも、もはや喜びを感じられなくなっていた。
なにかが違ってしまってた。

かつて、ある疾患による長年の激痛や不調があり、そのためにやりたいことも思うに任せず、悶々と過ごした日々も、様々なワークを通して長い時間をかけて徐々に治癒していき、ようやく気患うことなく動けるとなった時、それまでのブレーキが一気に外れた。

「これ以上、身体の不調を含めた様々な事情を言い訳にしては、自分を生きないなんてまっぴら!」と自分に三行半を突き付けた時、疾患というブレーキも外れていき、動けない言い訳に使っていた諸々の事情もわたしの世界からなくなっていた。

「死ぬときに後悔しないように」と、それまでやりたくてやれずにいたことをすべてやってしまうつもりで動いて、そうしている自分を力強くも感じていた。

もちろん、自分が好きで選んだことばかりだから喜びを覚える瞬間もあり、そんな風に動いたからこそ、かけがえのない仲間たちにも出会えたんだろう。


それがいつしか、違和感を覚え始める。
「ん?おかしいぞ、何の面白みも感じない・・」

いまなら自分に何が起こっていたか、わかるのだけどね。

この一年半、(実際はもっと前から)全てが空虚に感じられた。

暗い海をひたすら漂っているようでもあり、
すべてが過去の遺物のようにも感じられる時間。
この生が、あたかも過去生のように遠く感じられた。


追い討ちをかけるように、今年の春のある出来事をきっかけにして、
これまで必死に作り上げてきたアイデンティティーというべきものが
ガラガラと崩れてしまった。
いわゆるアイデンティティー・クライシスと呼ぶ状態を潜ってた。

これまでの生涯を通して築き上げてきたもの、そのなにもかもが無駄だったと。
どう生きればいいのか、まるでわからなくなってしまっていた。

同時に、隠されてきた人格が一気に声をあげ、叫び出した。

気が狂ってるのかと思いながら、その混沌の中の声を拾い上げ掬い上げ、ともに泣き、ともに叫び、ともに息をした。

大切な友人たちが集うSNSもほとんど見られなくなり、うまく言葉も発せられなくなった。

とうとうわたしも堕ちてしまったかと思わないでもなかった。

実際はそういうことじゃなくて、わたしたちは螺旋を昇るように生きていて、かつてつらい状況を潜り抜けた音階の時、例えばそれがドレミファソラシドの「ド」だとしたなら、次のオクターブの「ド」に来た時に、かつての「ド」の時の苦しさがリフレインしてるだけだったと、のちにわかるわけだけど。

渦中にいるときは、そこしか見えなくなってるから、いまの自分の高度がわからなくなってる。


SNSでもリアルでも友人たちと遊ぶこともせずに(できずに)、徹底的にセルフィッシュになって、自分に集中していた。

毎朝欠かさずひたすら呼吸法やエネルギーワークを行ってひと月経とうとしていたある時、唐突に、ほんとうに思いもよらないことが魂から告げられた。

「お蚕さん」

あまりに思いがけない、わたしの人生にお蚕が登場するなんて考えたこともなかった。

驚くと同時に、深いところで「うん、そうだ・・」と、納得している自分がいた。
思いもよらなかったことなのに、知っていた気がした。

それは熱狂的な何かじゃなく、静かにいつの間にか開かれていた扉。
とても自然なことじゃないかと言わんばかりに目の前に差し出されていた。

たくさんの回り道をして、無駄な時間もたくさん使いながら、
だからこそようやく、お蚕さんに触れさせてもらえる、
そんな、わたしの「神髄」とも呼ぶべき、魂の仕事に還ってこれた。

まだ、なにが起こっているのかわからないし、どんな扉が開かれていくのかもわからない。

けれど、魂の呼びかけのままにしかもう生きたくないのだけは明らか。


そんなわけで、新月の今日、わたしのもとにお蚕さまがやってきたのです。

この手で触ることができるのかどうかもわからないまま迎えた蚕。

いまわたしの横でむしゃむしゃご飯を食べて、糞をして、脱皮をして、見る間に大きくなってる・・神さまを見るようにお蚕さんを見ています。

今日がわたしの「養蚕始の儀」

これからこちらで養蚕の様子を投稿していけたらと思います。
苦手じゃなければ、成長の様子を見に来てください。

『 里山黄金繭 』

魂から「お蚕さん」という呼びかけが来て、まずは桑を・・と桑の木を手に入れたけど、
まだ小さい苗木のため、人工の飼料をあげてます。

いずれは100%桑の葉にするつもり。
一度桑の葉を食べた蚕は、二度と人工飼料を口にしないんだとか。


脱皮中のお蚕さん


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