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エッセイを書くなら何を書けるだろう。
エッセイを書いてみたい。
そう思ったのは、塩谷舞さんの『ここじゃない世界に行きたかった』を読んだからだ。多分塩谷さんだったら、わたしと同じ経験をしていてもあの幅広い表現力で、人を引き込むまるで違った表現をするんだろうな、と思う。
「本音をインターネットに置く」
本の中で印象に残った表現がこれだ。直接会ったときはそうでもなかった人と、インターネットに置いた本音がきっかけで意気投合したと言うエピソードが書かれていた。
なんとなくわたしの中ではインターネットに本音を置くのは、"逃げ"なんじゃないかなと思っていた。リアル至上主義。でもこの時代、別に"逃げ"なんてことはなくて、むしろ表現できる場所が全員に与えられている時代になった、というだけなんじゃないかと思う。
わたしは対面で人と話しているとき「よそ行きの自分」になっている。見られ方を気にしているというか、自分の内から表れてくるものを隠して、自分の五感を相手に注いでいる感覚だ。その場にいる時は自分のひた隠しにしている本音を言うことに使う体力はもう残されていない。だから、人と会って家に帰っていると「あれ、言えなかったな・・」みたいなことは茶飯事。
これは無意識のうちになってしまう。全自動。自分と他人の間には目には見えないフィルターが必ずあるという感覚。だから、直接会っている時に本音を言える相手はいない、と言っても良いかなと思っている。
いまこの瞬間、noteに向き合っている時間は、素の、本音の自分。何も着飾ることも、卑下することもない。大きくも小さくもなく等身大。目の前に「人」がいる限りは、多かれ少なかれ自分と比較しまうのは救いようのない人間の性なのかとも思う。
そもそもエッセイとは、と聞かれて正直わかっていない。
エッセイとは、特定の文学的形式を持たず、書き手の随想(思ったこと・感じたこと・考えたこと)を思うがままに書き記した文章のことである。
https://www.weblio.jp より引用
言葉の意味としてはこう。まあ、何書いても良いよ、とわたしは解釈した。多分世の中には「エッセイの書き方!」みたいなコンテンツはたくさんあるのだろうが、あえて見ていない。
知らないことや知識がないことって、良くないことと思われるかもしれないが、むしろ知ってしまったら「知らない」状態には戻れない。一度知ってしまったことってファーストインパクトで頭に残るし、下手するとその「枠」から外れられなくなる。自分のスタイルを知らないうちに、エッセイの「やり方」を知ってしまったら、その「やり方」に固まってしまうのではないかと思う。お笑いコンビのかまいたちのネタで、山内が「トトロ見たことない」というのを自慢するネタがあるが、あれもある意味真理をついてる、とも言えるかもしれない。
「表現」という分野においては特にそうなんじゃないかなと思っている。「売り上げを上げる方法!」「読まれる記事を書く方法!」など「やり方」、How toを学ぶことは大事だが、ただそれに沿ってやる人では物足りない。「表現」は正解もない世界なので、「知らない」「分からない」ことがヒントになることもある。
エッセイを書くなら何を書けるかな…。
塩谷さんみたいに、ニューヨークに住んでるわけでもないし、芸大も出てないし、大した経験とかしてないしなー…。と思い、何書けるかなと。自分勝手解釈で「エッセイ=何書いても良いよ」と解釈しているわけですが、それでも、うーんと考えてしまう。書けもするし、書けもしないのがエッセイ。「自由は不自由」ってやつですね。
少し自分を振り返ると、小さい頃から感性的なものが好きな自分だった。絵を書いたり、楽器をやったり。ハマっていた小説の文体を真似して小説もどきを書いたこともあった。言葉を話して何か伝えるというより、絵や音や文字で伝える方が好きなんだろう。1位などの数字、結果を追うよりも、よりよいクオリティのものを作ることが好きで、"社会人"として売り上げや成果の数字を求められるのが苦手なのも、感性的に生きてきたからかもしれない。部屋に飾っている花の花びらが少し傷んでいることや、花の据えられ方が気になってしまったり、塩谷さんの本を読んでいて"美しさ"のようなワードに惹かれるのも、自分の感性のアンテナになにか引っかかるものがあるのだろう。
小学生、中学生くらいの頃は、漫画や小説などを読み終わると「なにか描きたい!」という衝動が出てきて、漫画のキャラクターなどを模写したりしていた。"表現欲"、とでも言えばよいだろうか。でも、最近はそれが起こることはあまりない。どこに行ってしまったのだろうか。…と思ったが、今は"noteを書く"という別の形で戻ってきてくれたのかもしれない。
書いているとまだまだ表現力のなさに、思考も、手も、止まる感じがある。が、まずはわたしの持てる表現力を駆使して表現してみようと思う。今後も少しずつエッセイのようなものを書いていきたい。ここから何か得るものがある人がいるのかは分からないけど、一人の人にでも何かきっかけが与えられれば。
salar