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自主映画を、撮る。その3

2021年11月某日、正午過ぎ。

主宰の学び舎、関西学院大学。この場所に映画部の精鋭が集結、記念すべき復活後第一回の企画会議が行われました。昔から時間管理が下手クソな主宰は、予定時間より随分前に到着。コンビニで手早くレジュメ印刷を済ませ、キャンパスの散歩がてら彼らの到着を待ちます。対面授業の再開、他方部活サークル活動には未だ制約も多いという難しい状況の中で。

なんだかんだ顔を合わせて話すのは、それこそ5年振りとか10年振りとか。決して会いに行けない距離感で暮らしている訳ではないのですけれど、それぞれの環境/コミュニティでの活動が忙しくなってきており。例えばこんな風に、何か理由を付けて会合を持たない限り交わらなくなってしまった。歳を重ねるとはそういうこと、悲しいですが受け入れて前に進んで行くしか。

企画会議とは言いつつ、まずは再会を祝そう。

また何かの機会に後述しますが、主宰が当日用意していた企画書とも大きく関わってくる部分。まるで自分が生まれ育った昔懐かしい街の景色が思い出せなくなっていくのと同じように、果たしてコロナ禍以前の暮らしがどんなものだったかわからなくなる瞬間はあって。単なる物忘れの悪化かも。とはいえ生活様式を根底から覆された2年間だったことは確か。

作り手たるものそうしたファクターを漏れなく作品性に投影していかねば。悪夢としてでなく、あくまで未来像を描きつつ。連続テレビ小説『おかえりモネ』を毎日観ていて、つくづく身につまされましたよ。本当に素晴らしいドラマだった。昔からのアンチや否定派が特に多い枠ですから、当然批判も多岐に渡っていたことは事実。しかし。

(※毎度お馴染み、冗長な与太話)『おかえりモネ』の凄さ。①

毎日放送される15分枠という性質上、エイヤで押し切る場面も勿論多かった。その辺りがしっかり主役脇役の演技力で補完されており主宰としては好印象、むしろメイン議題に挙げられるべきは徹底した「薄味演出」「ジェットコースタームービーへの反発」あるいは「細部まで行き届いた未来志向」にあったのではないかと考えていて。

清原果耶の演技は無味乾燥だとか、永瀬廉演じるりょーちんの心の動きが見え辛いだとか、震災体験の家畜化だといった評価が数多く散見されましたが正直甚だ見当違いだと感じた。つまり起伏を抑えるからこそ生まれる起伏、細かな心の機微というものに日々気付きを与えてくれた作品で。これまでの朝ドラとは明らかに一線画す仕上がり。

『おかえりモネ』の凄さ。②

描き切らないからこそ描ける行間や言葉の裏側。あるいは「沈黙は語る」を地で行く台詞なし寄りカットの応酬に、七色の感情表現を見た。もう圧巻の一言です。安達奈緒子/清原果耶・蒔田彩珠コンビは、『透明なゆりかご』時代からの大ファンで。苦手意識の強かった医療系ドラマの中でも数少ない完走作、『おかえりモネ』にも通ずるニュートラルな魅力が満載でした。

百戦錬磨の役者を揃えたからこそ成し得る「薄味演出」「ジェットコースタームービーへの反発」、必要に応じ過去を参照するという「現在(あるいは現実)を直視し、明るい未来に向かう」姿勢の完遂。主人公や患者家族の成長記録といった平面的な描き方や安易な台詞に固執せず、沈黙で語るべきシーンは沈黙で語り、語り得ぬ世界は語らないそんな作り手のこだわりが見えた。

『カムカムエヴリバディ』大阪編もヤバい。(1)

ヒロインが深津絵里に代わり、洋画オマージュや過去の朝ドラをリファレンスとした画作りが随所に感じられ非常にクリエイティブな気持ちで毎朝8時を迎えられており。特に印象的だったのはオダギリジョー演じる大月がるいを部屋に招き入れ「トランペット、吹いてみる?」なんて諭すシーン。後ろから優しく抱き寄せるカットは演出構図共に令和版『ゴースト』。

商店街を右に曲がった先にるいのクリーニング屋を置いたのは周到な準備の裏返し。かつて母・安子が和菓子作りに勤しんだ店も角を右に曲がった先。つまりあの曲がり角はセットの使い回しなどではなく、明確に過去と現在を対比的に描く為の「ゲート」的役割を担っていて。その証拠に現在軸を描くエピソードの前には必ず画面奥から手前へ「角を右折する」カットを挟む。

『カムカムエヴリバディ』大阪編もヤバい。(2)

他方るいの過去に切り込むエピソードでは画面手前から奥へ「角を左折する」カットが必ず挟まれる。朝イチからこのギミックに気付かされた時の鳥肌具合よ。オダギリ・深津の恋模様は絶えずパステルカラーの映像で映し出し、個々の生活に戻ると途端に現実派な色調。これは確信犯的。恋沙汰は淡く描き、リアルはリアルとして切り取るという対比。本当に見事です。

市川実日子演じるベリーが、るいに告白の返答を促すシーン。額の傷を確認してからの沈黙そして彼女を厳しくも優しく後押しする場面、非常に美しかった。「冗長で説明口調な台詞」なしに、ここまで状況整理できる脚本演出には驚嘆の一言しかなく。より役者の微細な心の動きを切り取れる「長回し」の撮影手法も絶妙に効いていて。確かに「角を左に曲がって」いた。

(半ば強引な)結び。

「時折ユーモアを交える」演出もとっても粋でした。それがシーン毎にプラス軸にもマイナス軸にも作用する両対応なシステムとして機能していた点は、両作の隠れた特筆事項かも。暗い話の最中ほどいかに相手を和ますか、あるいは勇気付ける言葉ほど虚しく響いてしまう。そんな局面を、ここまで克明に記録できた作品を主宰は未だかつて知らない。とにかく圧倒的。

「すべてが整うと雨が降る」すら伏線だったのではと思わされるほど。

ここまでが与太話。こうして得た皮膚感覚を、今度はいかに自身の作品性に落とし込めるか。記念すべき映画部の復帰一作目にどう反映させるか。いの一番に感じたのは「明るい映画を撮ろう」、こんな時代だからこそプラス軸に踏み出せる一手を打とう。そこから導き出した「オムニバス形式」「中長編映画」という二つの異なる世界線。

(次回へ続く)

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