アニメ批評のやり方(ちゃんとしたやつ)ーー良いアニメ批評の構成をパクろう!
前にこんな記事を書いて大変好評をいただきました。
しかしちょっと茶化して書いた部分も多く、今一度ちゃんとしたアニメ批評のハウツーを書きたいと思い、ふたたびペンを取りました。
私が思うに、アニメ批評のコツは、クオリティの高い批評文の構成をパクることです。構成が見えたのなら、あとは花言葉でも同一人物説でも好きなことをその構成に任せて書くだけです。
というわけで今回は、具体的なアニメ批評を参考にして、その論の構成を分析し、そこからアニメ批評のやり方を学ぶことを目標にします。
参考にするのは「週末批評」に掲載されている「失われた星を求めて──アニメ『美少年探偵団』のクィア・リーディング|あにもに」です。選んだ理由は、比較的短めで論旨がまとまっている点と、他ではなく「アニメ」を批評の対象とする手つきが参考になるからです。
まず全体の構成の流れを見た後に、各章の技法を個別に分析してみます。このnoteを読んでいるあなたがもし上記の批評をまだ読んでいないのなら、リンク先を一読してから戻りましょう。
全体の構成
上記の批評を段落レベルの構成に落とし込んでみると、以下のようになりました。
【プロローグ(はじめに)】題材のユニークさと、分析方法を述べる
プロローグでは、批評する作品が何なのかと、なんでそれを批評するのかを簡単に述べましょう。
上記の批評だと、分析対象がアニメ『美少年探偵団』で、理由はクィアな描写が多いから、というわけですね。クィアに読める描写が多いから、分析方法はクィア・リーディングという算段です。
【第1章】先行作品と比較して、題材のユニークさを明示する
第1章では、先行作品と比較して、今回取り上げる作品の独自さを明示しましょう。
上記の批評だと、『美少年探偵団』における異性装と、その作者である西尾維新の他作品(これは小説)における異性装との比較をしています。
そして他作品と比較したときの『美少年探偵団』の独自さは、日常的に(必要がないときでさえ)異性装をしている点です。
【第2章】作品内容を具体的に分析して、核となる主張を述べる
第2章では、前章で示した独自さを、具体的な内容分析で示し、そのことが何を意味するのかを述べましょう。
上記の批評だと、眉美の異性装を具体的ないくつかのシーンから分析し、眉美のあり方が「ノンバイナリー」的であることを主張します。
【第3章】別の角度(演出)から主張を補強する①
第3章では、核となる主張を支える根拠を挙げ、自説に説得力を持たせましょう。
上記の批評だと、眉美が「ノンバイナリー」であるという主張を、アニメ『美少年探偵団』における星のモチーフの意味から補強します。
星のモチーフが作中において「隠されているアイデンティティ」を意味することと、男装によって隠されていた耳元の星のピアスが顕になることから、眉美のアイデンティティが男装すると表出されるという形で、星と「ノンバイナリー」が結びつけられます。
【第4章】別の角度(演出)から主張を補強する②
第4章では、他の根拠を書きましょう。要はダメ押しです。根拠はなんぼあってもいいですからね。あるいは第3章と第4章合わせてひとつの根拠ともいえるかもしれません。
上記の批評だと、今度は星の色の意味から主張を補強します。星と「ノンバイナリー」の関係を別の角度から掘り下げていきます。
眉美の紫、白、黒の配色に星のピアスの黄色が加わると、プライドフラッグの配色になるということで、星と「ノンバイナリー」を結びつけることは好き勝手な言いがかりじゃないんだぞと示すのです。これで説得力を確固たるものにします。
【最終章(第5章)】大きなことを言う
最後に、大きいことを言いましょう。要は論が意義深いことを最後にアピールするわけです。
上記の批評だと、大きなこととは、「ノンバイナリー」が作品全体のテーマに関わっている重要な視点であることです。
まずアニメ『美少年探偵団』には、「子供の遊び(アニメ)>大人(現実)」というメインテーマがあると風呂敷を広げます。そして「ノンバイナリー」が「子供の遊び」側に位置付けられることを示すことで、「ノンバイナリー」が作品全体のテーマに大きく関わっていると、大きなことを言っているのです。
さらに最後には、視聴者にも言葉は向けられているとか祝福とかさらにデカいことも言います。デカいことは言えば言うほどいいですからね。
【エピローグ(おわりに)】書き足りなかったことを書く
エピローグでは、書き足りなかったことを書きましょう。そして最後にかっこいい感じでまとめるとOKです。
注目すべき技法
次に、参考になる「うまい」批評の技法を、各章ごとにピックアップしていきます。
プロローグ(はじめに)の技法
クィアな作品として読み解くと宣言した直後の以下の段落は大変参考になります。
わざわざ穿った読み方をするときに(そもそも批評とは穿った見方をすることである)、この「とはいえ〜しかし〜」論法は大変便利です。穿った見方してるのはわかってますよ、あえてやってるんですよとアピールをする「言い訳」戦術ですね。
例を挙げると、ゲーセンで4000円も使っちゃったぁ(泣)。とはいえ、私も自分が欲しいものならここまでお金を使わなかったぁ。しかし、友達にあげるためだったから我慢ができなかったぁ。みたいな感じです。まさに犬系な言い訳ですね。
ですがここで注目したいのは、「とはいえ〜しかし〜」に続く「むしろ〜」です。「むしろ〜」以降では論を先へと展開しており、この段落は単なる言い訳パートに終わりません。なぜ(小説ではなく)アニメを批評の対象にするのかまで論をジャンプさせており、「むしろ」の効果は絶大です。
ここで気づきたいのは、この段落では小説とアニメの比較がされていることです。「とはいえ〜」のパートでは、小説もアニメも直接クィアだと言及されていないのは同じだと書いてあります。ただし、同じとはいえアニメと小説が別媒体であることに私たちは気づきます。「これは原作小説でも同様である。」というサラッと書いてある一文が、これからするジャンプの土台になっているんですね。
そして「むしろ〜」のパートでは、2つの媒体を比べたときに、アニメが確信犯的にテーマを前に出していることを伝えることで、小説ではなくアニメを分析する意義にまで踏み込んでいるのです。これは先ほどの「これは原作小説でも同様である。」という一文の賜物です。これがなかったら読者はアニメだけでなく小説があることを知れませんから。まさに細やかな意匠ですね。
この「とはいえ〜しかし〜むしろ〜」の三段構成によって、この段落を単なる言い訳にとどまらせず、アニメを批評する意義までしれっとねじ込んでいるのです。これは真似したいですね。
プロローグのその他の技法で注目すべきは、アニメをどう批評するのかという方法の宣言です。なぜアニメを対象にするのかは上の通りですが、アニメをどう料理(批評)するのかはまた別の話です。以下引用。
つまり、アニメの批評とは、アニメを「映像と物語の両方の側面から」分析することだというのです。小説を分析することとの大きな違いは、まさに映像の分析であるという点です。映像とは画面に映されているものはもちろん、動きとか音楽とかも分析対象に含まれます。これはなかなかできていない批評家も多いように思います。
「アニメ批評のアプローチは映像と物語である」。これはアニメ批評をする際に肝に銘じておきたい言葉です。
第1章の技法
第1章「西尾維新のクロスドレッシング」において、『美少年探偵団』とその他の西尾維新作品を比較する手つきは大変参考になります。
当然この章では、『美少年探偵団』の他の作品にはないユニークさを示さないといけないですが、それが突拍子もないユニークさだと、ただ単に特異な例外的作品になってしまい、わざわざ取り上げる価値が薄くなってしまいます。
そうではなく、異性装はあくまで西尾維新が関心を払ってきたテーマであることを述べることで、いったん『美少年探偵団』を西尾維新作品のレールに乗せます。そしてレールに乗せた上で独自性を示すのです。西尾維新が今まで関心を払っていたテーマなのに、他の作品とは一味違ったオリジナリティがある、だからこそ分析する意義があるという論法です。
「型破り」とは一度「型」を習得した人があえてその「型」を破ることです。それと同じで、単に違いを述べればいいわけじゃなく、一度方向を合わせて、その上でちょっと外すというやり方は覚えておきたいですね。
その他に注目したい技法は、章の最後にある結論の先取りです。以下引用。
この章のメインの主張は、「『美少年探偵団』の異性装は、必要に迫られない普段からも行われている」でしょうが、ぶっちゃけこれだけ聞くとパンチが弱いように思えます。そこで結論を先に示すのも作戦のひとつです。現段階の手札では言えないことも、先に示すことで読者に納得感を持たせることができるのです。なかなかツウな技法ですね。
第2章の技法
第2章「越境する性」でまず注目すべきは、アニメ批評の幅広い手つきです。
この章は眉美の異性装を具体的に分析するパートですが、その手数の多さに驚かされます。
まずは物語分析。これは基本中の基本ですね。アニメと小説の両面から眉美の異性装が「男装」によっていないことを示します。
次に劇伴(のインタビュー)、声優(のオーディション秘話)と、アニメならではの観点から縦横無尽に論を積み上げています。
そして「声」を頼りに再び物語分析に。結局のところ全部「眉美のジェンダーのあいまいさ」を示す論拠であるわけですが、そのチョイスの仕方と組み立て方も重要なのです。
その他の注目ポイントは、バトラーの引用です。批評を書く上で哲学者の言葉を引用することはかっこいいので皆さんもやってみたいでしょうが、哲学者の言葉に振り回されてうまくいかないことが多いです。手に負えないかっこつけはだいたいミスります。では、この批評におけるバトラーの引用はうまくいってるのでしょうか。
少なくとも私にはうまくいっているように見えます。それは引用箇所がバトラーによる「パフォーマティヴィティ」の説明ではなく、「芝居による脱自然化」だからです。
初心者は哲学者(もっと広く思想家・批評家も含む)の言葉を引用するとき、例えば「パフォーマティヴィティ」という概念を使いたいなら、バトラーが「パフォーマティヴィティ」を説明しているところを引用します。
ところがこの批評は「パフォーマティヴィティ」を簡潔に自分でまとめ、引用箇所は「パフォーマティヴィティ」に基づいた違う箇所なのです。以下引用。
この後にバトラーの引用が入ります。実はここで「パフォーマティヴィティ」そのものは引用していないんですよね。オレでなきゃ見逃しちゃうね。ただ「脱自然化」はいきなり出てきた概念なのでもう少し解説があっても嬉しいです。まあ、読んで字の如くではありますが。
そして引用箇所である「芝居による脱自然化」は、作品の具体的なシーンを取り上げることができ、だからこそ引用がうまくいっていると言えるのです。やはり哲学者の言葉をうまく引けるようになると説得力が段違いなので、この手慣れな引用は真似できるようになりたいものです。
第3章の技法
第3章「男装と星」では、やはり星のモチーフと「ノンバイナリー」を結びつけた手腕が参考になります。
単に星のモチーフといっても取り上げる例はひとつではなく、「星(天体)」→「星(形)のピアス」→「瞳の星」とバリエーションに富んでいるのは流石です。
とはいえ、「星(天体)」と「星(形)のピアス」は「作中において隠されているけどそこにあるもの」という点で共通していますが、アイデンティティを表す「瞳の星」は質が違うように思えます。そこで眉美の将来の夢が宇宙飛行士であることを持ち出すことによって、アイデンティティにおいても「天体の星(宇宙飛行士)→星形のモチーフ(瞳の星)」のスクワットを組んだのはやはりやり手です。
ただし、「瞳の星」は普段から現れているもののようなので、若干の矛盾を感じてしまいます。宇宙飛行士の夢も含めて、「隠されているけどそこにある」の観点からもっと説明があってもよいように思えました。
あと気になるのは「あえて強調するまでもなく」です。普通に強調して欲しいと思いましたが、そこは人によりけりですね。以下引用。
第4章の技法
第4章「星の輝き」では、星(のピアス)を色という観点からさらに深掘りする姿勢が参考になります。
ここで、アニメ制作会社のシャフトが他作品でも色にジェンダーの意味を付与していることや、他のシーンでノンバイナリーの色の意匠が用いられていることを示して、さらっと説を補強しているところがポイントです。これはさらっとやっていますが意外と難しいです。
あと、「たちどころに理解できるだろう」ってフレーズは一度は使ってみたい文言ですね。以下引用。
第5章の技法
第5章「子供の遊び」は、そもそもこの章があること自体驚くべきことです。普通は星のモチーフを論じ切って終わりですから。
大きいことを言うにしても、「論理は雑でもエピローグでとりあえずデカいこと言っとくか〜」くらいが普通なので、また新しく議論をリスタートして、「ノンバイナリー」が作品全体のテーマと深く関わっているのかを検証しはじめたことには、素直にびっくりしました。
しかし、最後のあたりは若干パワープレイだったように思えます。以下引用。
言うほど誰の目にとっても明らかか?と思いました。やはりどれだけ丁寧に論証しても、最後に範疇を超えたデカいこと言いたくなるのが人間のサガってやつみたいですね。
「ノンバイナリー」と「子供の遊び=アニメ」の関連はこの章から出てきたのもあって言うほど自明ではなさそうですが、ときにはパワープレイで言いたいことを押し切るのもまた一興といえそうです。
エピローグ(おわりに)の技法
以下のように、「とはいえ〜」で反省し、「あるいは〜」でやり残したことを書いているのが参考になりました。
また最後に、フィクションであることから離れて、現実の実践的な試みとして理解するオチは、アニメ批評の落とし所の1パターンといえます。ただし、この批評だと第5章がそういう話だったのでわかる話ですが、安易にリアルと結びつけるとたまに痛い目を見るので注意が必要です。
あとがき
このように他人の書いた批評をしっかり読むことは批評力を高める近道といえます。難しい哲学書ばかり読んでいてもいいですが、たまには人の書いた批評を吟味するとよいでしょう。
そういうお前はどうなんだと言われそうなので、近いうちに今回学んだフォーマットを参考に批評の実践をしてみたいですね。
それでは皆さん、良き批評ライフを!