「飛ぶ船」としての劇場 (眠りながら考えた(6))
劇場という「飛ぶ船」。
『とぶ船』(ヒルダ・ルイス作、石井桃子訳、岩波書店)という本に、子どもの頃、夢中になった。
四人兄弟のお兄ちゃんが買ってきたおもちゃの船が、なんと魔法の船だった。ときどきぐんぐん大きくなって四人を乗せて、古代エジプトや北欧神話や中世イギリスの世界に飛んでいってくれる。
憧れた。
この「飛ぶ船」のイメージが、私にとっての「劇場」の原型のような気がする。
演劇は時間の芸術だ。始まりがあり、終わりがある。始まりと終わりがあるからには、方向性がある。流れがある。
潮の流れ、のようなものだとする。
脚本は船だ。
私たち観客は、船旅をしに劇場へ行く。
キャストとスタッフもいっしょに船の上にいるけど、もちろんゲストじゃなくてクルーだ。クルーは責任を持って、一致協力して、船を進めていく。
キャスト(俳優)の個々の演技のうまさ、個人プレーを足し上げていっても、船は動かない。
もちろん、船=脚本だけでも、船は動かない。
俳優を輝かせるのに徹した脚本と、
脚本を輝かせるのに徹した俳優が出会ったとき、
船は飛ぶ。
以前からそう思ってはいたのだけど、以前は。
この比喩が、もっと深く刺さる可能性を持っていることに、正直、気づいていなかった。
そう。板子一枚下は地獄、ってやつだ。
船の悲劇。
いま、2020年の春、船と言えば。
自動的にダイアモンド・プリンセス号だ。
私はいま、とても悲しい気持ちでこの文章を書いている。
私たちを乗せて、世界じゅうのどこへでも、過去へも未来へも行ってくれるはずだった「飛ぶ船」が、劇場が、
一転して、危険な乗り物になってしまった。
同じ空間にいて、同じ空気を吸って、
ということが、絶対にやってはいけないことに指定されてしまった。
不慣れな映像作品を作ってみたりしながら、考える。
遠隔でコラボするドラマやパフォーマンスを視聴しながら、考える。
人見知りでダメダメだった私に、
誰か、隣にいてくれる人と、同じ空気を分かち合うこと、
自分も息をしているんだと実感できること、
それを教えてくれたのが、音楽と演劇だったのに、
もちろん、いま、私自身、人に会うのが怖い。
最後に残った東京とその近辺の緊急事態宣言が解除されたら、
劇場に、人は、戻ってくるんだろうか?
私たちは、もとに戻れるんだろうか?
戻れるほうに、賭ける。
それでも、戻れる、と思う。思いたい。
だって、リモートで作品を創っている人たちだって、みんなそろそろ、いやとっくに、うずうずしているはずだ。
ライブで、やりたいと。
絶対そう。
隣の人の拍手を、舞台の上の声を、音を、空気の振動として感じたい。
デジタル信号じゃなく。
人と人とが、そばにいて、許される世界。
そんな《ふつう》のはずの世界が、いま、非現実だ。
そこへ帰る船が、ほしい。
帰ろう。みんなで。
かならず。
「飛ぶ船」の値段。
「飛ぶ船」を不思議なアンティークショップで見つけた主人公のピーター少年が、値段を聞くと、店主さんは微笑んで言う。
「世界のどんな王さまもお金持ちも、これを買えた人はいないんだ」
(すみません、いま手もとに本がないので記憶で書いてます)
その値段は――
きみの持っているすべてと、あと少し。
ピーター君は、持っているお小遣いすべてと、お父さんに返さなきゃいけないお金と、帰りのバス賃も、全部出す。
そしてとぼとぼ歩いて帰って、お父さんに叱られる。(たしか)
私も払わなきゃいけないんだと思う。私の持っているすべてと、あと少し。
知恵をしぼれ、私よ。
この災禍を体験したあとだからこそ創れる舞台が、あるはずだ。
船よ、飛べ!
なんてね。