ロザリオを通して考えたエキュメニカル
さて、今回はドールライフのお話は少し離れて、お祈りのお話です。月影左京です。
このnoteでは初めて触れる話題ですね。実は私は日本基督教団のクリスチャンでもあるんです。
プロテスタントのクリスチャンである私には、カトリックのクリスチャンである友人がいます。そんな友人と、「エキュメニカルなロザリオ」について最近お話を交わす機会がありましたので、記録がてら書いてみます。
初めて知った「エキュメニカルなロザリオ」
私は、過去にカトリック教会のお世話になったこともあり、ヘッダ画像に載せたようにロザリオを2つ持っています。でも、プロテスタントのクリスチャンは大抵ロザリオを用いて祈ることはありません。
それは何だか持て余してしまっているのがもったいないなと、プロテスタントでも祈れる方法は無いかと探し、見つけたのがこちらの記事でした。
コロナ禍の膨大な空き時間を有効活用する手立てのひとつとして「エキュメニカルなロザリオ」が紹介されています。
なお、執筆してくださっているのは救世軍の方で、一般的なプロテスタント教会で言うところの牧師に相当するお立場の方でいらっしゃいます。
プロテスタントですから十字を切ることは特にせず、十字架のところでニカイア信条を、そして主の祈り、最も重要な掟の祈り、大宣教令に応える祈り……と、記事内で案内されているとおりにお祈りをしていました。
曜日毎に黙想するテーマとなる聖句も決まっており、一見すると見事にプロテスタントとカトリックとの融合・一致を果たした「エキュメニカルな」お祈りでした。
ですが、そのことを不意にカトリックのクリスチャンな友人に話したところ、意外な新発見をすることとなりました。
ロザリオを知る前からの「アヴェ・マリア」
カトリックのクリスチャンな友人と共に、久しぶりにカトリック式のロザリオの祈りを唱えたことで、ふと普段祈っているやり方である、この「エキュメニカルなロザリオ」の話を伝えました。
すると、そこには何と知らなかった真実が隠されていたのです。
それは、カトリックのクリスチャンは、ロザリオの祈りを覚えるよりも先に、聖母マリアへ祈る「アヴェ・マリア」を覚えるということ。
つまりロザリオの祈りはそのアヴェ・マリアの祈りのための聖具であり、聖母マリアへ語りかける時間のお伴としてのビーズであるということなのでした。
だから、ロザリオの祈りからアヴェ・マリアを取り払ってしまうことは、本質的なものを取り払ってしまうことになってしまう……これは、「エキュメニカルな祈りをした"つもり"」ということ。プロテスタント側のアレンジが強すぎて、本当の一致になり得ないのかもしれないのです。
プロテスタントでも様々な祈りがありますが、たとえばプロテスタントの主日礼拝で大切にされている賛美歌を全部カトリックの聖歌に変えてしまうことを「エキュメニカルな礼拝」と言われたら……?
賛美歌もまた、歌によって賛美や感謝、奉献のの祈りを捧げるものですから、違和感が大きく横たわることになるでしょう。ロザリオの祈りからアヴェ・マリアを取り払ってしまうのは、たとえるならそうしたことなのでした。
これは、カトリックのことをよく知らなかった私にはとても大きな新発見で、落とし穴でした。
エキュメニカルなロザリオの追究
さて、そうと分かれば安易にこれまでのロザリオの祈り方をするわけにはいきません。少なくとも私にとっては「独りよがりのエキュメニカル」になってしまうので、抵抗があります。
人間や天使を相手に祈ることの無いプロテスタントですが、カトリックでは聖母マリアにとりなしていただきながら神様からの導きやお恵みを得ます。
つまりアヴェ・マリアの祈りを完全には取り払わず、されど人間崇拝と見なされてしまわないように……そう目指していかなければ、エキュメニカルなロザリオの祈りはたどり着けないのかも知れません。
……なかなか、慎重を期したい課題です。
友人と色々模索しながら、互いにプロテスタントやカトリックの実情を学び合うためにロザリオの祈りを通して聖なる交わりができたら良いなと思うばかりです。
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