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vol.17 第二次性徴を経て思うこと

*いつにも増して本音で書いてます。
*性的描写を含みます。ご容赦ください。

ワタシは今世で
今のところ3人出産してきましたが
実は妊娠は4回しています。
(病院で初診の問診票に書くのはいまだに辛い)

妊娠がわかった時
どんなに気持ちは産みたくとも
ワタシは産めるカラダではありませんでした。

当時の相手にもきちんと言えず
先が見えない漆黒の闇のような孤独の中で
堕胎=殺人同様という自責の念に苛まれ
水も口にできないほどの拒食症になり
道端で倒れて泣く始末。

誰にも何にも言えないまま
なんとか手術の費用を集めて
ちいさな病院のドアを叩いたけれど
手術室に並ぶ器具を眼にした途端
恐怖のあまり失神してしまい
結局、大きな病院へ搬送された。

その病院で初めて
当時の看護師さんが抱きしめてくれた。
「怖いよね…辛いよね…だけど先ずはあなた自身が元気になるために。今、この決断は間違ってないのよ。」

涙が止まらなかった。
やっと誰かに受け止めてもらえた気がした。

手術室に運ばれ
看護師さんと10カウントしているうちに
全身麻酔の深い眠りにおちた。

気が付いた時はまだ視覚に色が無かった。
耳だけは先に感覚を取り戻し聞こえていた。

「手術無事に終わったからね…」
遠くから看護師さんの声が聞こえる。

ワタシは朦朧とした意識の中で
「ごめんね、ごめんね…」と
ひたすら泣いていたと、後から聞いた。

その後も
大きすぎるショックから摂食障害は続いた。

拒食症と過食症を繰り返す摂食障害。
自殺寸前の心境で街中を
夢遊病みたいに彷徨ったこともあった。

法的には認められている中絶も
あの頃のワタシには
ただの殺人行為にしか思えなくて
いつまでもいつまでも
泣きながら目を覚まし、怖い夢を見た。

正気に戻ればまた怖くなって泣いて
一生懸命、看護師さんの言葉を思い出しては
自分を慰めようとするけれど
精神はもう極限状態だった。

そんな時、
日本アノレキシア•ブリミア協会という
摂食障害の自助グループから出版されている
ある一冊の本に出逢えたことが
ワタシの人生を大きく変えた。

その本にはワタシのココロの叫びが
手に取るように書いてあった。

摂食障害で悩んでいる人が
自分以外にも
世界中にこんなに居るんだと知って
ものすごく泣いた。

10代のワタシには、あまりにもキツすぎる体験だった。

産めなかった赤ちゃんは女の子だった。

人工妊娠中絶手術の前に医師から
今後子供を授かることは難しいと
説明を受けたのもよく憶えている。

だから長男を授かった時は奇跡としか思えなかった。

そうして次男三男と恵まれて
今、ワタシはこうしてなんとか生きている。

男の子ばかりが
ワタシの元へ来てくれたことも必然、意味がある。

自分の体の中に芽生えた
何の罪もない、生きようと必死の生命を
自分の都合で、自分の決断で、
諦めなければならない痛みというのは
身を引き裂かれる以上に
消えてしまいたくなるほど、本当に苦しい。

だからこそ、その痛みをワタシは
息子たちにも隠さずに
しっかりと伝えていかねばならない。

第二次性徴を経てきた大人なら
誰にでもその使命はあるはずなのに。

ましてや肝心な親そのものが
キレイごとや羞恥心からなのか
性教育というものを学校や人任せにする。

その結果、
事が起こってから
順序があるだの、まだ早いだのと、
そこに憤りを表したとして
…それは正当なことなのか?

ニュースを見て
切なすぎると涙を流すくらいなら
今、自分にできることを考えるべき。

性行為ってどういうことなのか?
避妊ってどうして必要なのか?
生命はなぜ尊いものなのか?

種を存続させていくためとはいえ
苦痛しかなかったら誰もヤリはしない。

快楽を伴い、本能が働くからこそ、
ヤらずにはいられなくなるように
人間だってプログラミングされている。

でも人間には「理性」があって
少し先の未来を考えるチカラもある。
そしで私たち大人は
年の功だけ若者たちより、
その "悦び" も "現実" も知っている。

エロいとか、恥ずかしいとか、
キレイごとばっかり言ってる暇は無い。

無論、動物にも人間にもある愛情表現として
セックスがあることに異論はない。

ただただ、ひとつだけ。
愛情表現というならばこそ
本当に愛情を伴うものであって欲しいと願う。

そして産む選択も、産まない選択も、
等しく尊重されるべきことで
誰にも責められることではないと
あの頃のワタシに伝えてあげたい。

産めなかった命にも
産むことができた命にも
幸せを祈る心の豊かさと努力だけは
これからも絶対に忘れてはいけない。

最後まで読んでくださりありがとうございます🙏

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