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夕顔

行き過ぎる牛車の、優美なこと。轍まで自信に満ち溢れたそのお方を、間違いなく高貴で美しい方がお待ちになっておられるはず。恋い慕うより先に妬みを覚えて、明るい月を眺めた。蜜がとろけるような光が満ち満ちている。きっと夜が来る毎に牛車の気配を確かめて、次は幾夜後のことなのか、数えて待ってしまうことだろう。堪らずに、紙を選び香を薫き墨を磨り筆を弄びながら、牛車を待つ。意外にもそれは夕暮れ時だった。道なかに車が留まり、従者の方が生垣に絡まった夕顔を家の者に所望したようだ。載せる物が紙では頼りないことだろう。ふと見やると、気に入りの扇がある。
《心あてにそれかとぞ見る白霧の光そへたる夕がほの花》
咄嗟に書いて、女童に渡させてしまったが、はしたない行いだったのではないだろうか。ちらと覗くと、扇越しに涼やかな眼差しがこちらを見た。微笑んでおられる。胸が強く弾むものだから、苦しくなって突っ伏して蔀を閉じさせた。

(子を成した夫君の頭の中将から、光の君様のご様子を伺うこともあったけれども、あの頃は夫君のことしか想ってはいなかったのだから、真実にそのように光り輝くようなお方がおられるとは、考えてもみなかった。夫君とは正妻に脅されて、こちらに逃がされてからはそれぎりなのだから、未練などは捨ててしまって運命を嘆かずに、もうしばらくしたら山などに移り住むしかなかった。その頃にはきっと娘にも会い一緒に住まうことも許されたはずだった)

このような時間にお出ましなのだから、特別な御用がおありなのではないだろうか。またこちらにいらっしゃることなどはおありだろうか。光の君様ではないようなふりをして、またいらっしゃるおつもりでおられるのか。時が過ぎるたび、胸の鳴るたびに、花びらが散りゆくような心地がして、耐え難い。日がな一日強い日差しを感じて、目を閉じ溜息をつく。あの方を光の君様を少しでも近くに見つめていたい。薫物の気配を知りたい。いいえ、いまもしもあの方に近づくようなことがあれば、気を失ってしまう。そのように胸の震えることがあるなら、まだ先でかまわないと、幾日かを過ごす。そうしているうちに、光の君様の従者の方がこちらの女房に文など寄越すようになり、月の大きな夜、光の君様はとうとういらっしゃった。若い面立ちに似つかわしくない柔らかなお話ぶりで、月が天辺に差し掛かる頃には、二夜ともお帰りになってしまわれた。
今宵も雨など降る気配もない。間も無く訪いが聞こえてくるはずだ。居ても立っても居られずに、歌など書き散らかしてみても、字は定まらず心の震えがそのまま映し出されてどうにもならない。ふと気配がして振り返ると、光の届かない辺りに懐かしく感じるお方が立っておられる。恥ずかしく思って紙を束ねて後ろに隠すと、何を書いていたのですか、私には見せてくださらないのですか。と私を長い腕で包んで紙を奪おうとされる。見てはいけません、たわいもない歌ですから、と優しく抗ううちにふと思い付いて、灯りを吹き消してしまった。灯りが消え真っ暗闇になってしまってから、大好きなお方の香を胸いっぱいに嗅ぎ、何が起きているのか思い知る。目が慣れてくるまでに息を整えて、ようやく額と額を合わせ、ひかりのきみさま、ではありませんわね? と囁いた。大好きなお方が微笑んで、わたしは幸せに目をつむる。

まだ涼しいというのに、ただただ強い白い光が全てを晒す朝が来てしまった。光の君様はわたしの衣に袖を通して、素知らぬふりをしている。わたしもそっと手近にあった衣を引っ張り被って、男の衣もよくお似合いですが、着方はこうですよと直された。髪も結ってみましょう、などと楽しくふざけ合っていたのに、不意に、夕顔よ、このままふたりきり何処かへ行ってしまおうか、そのようにおっしゃる。お顔が寂しく感じられて、はいと申し上げた。女房を下がらせたまま、一日を過ごし、お粥を召し上がると身支度を整え、闇に紛れてわたしを軽々と抱きかかえたまま、牛車に乗られる。薄暗い車の中は、光の君様の腕の中で目が合い、ひたすらに幸せでいたけれども、うら寂しいお屋敷に連れて来られて、身の置き所も無くどうしていればいいのかと思って隅の方にいると、なぜそのような所にいるの、と光の君様はにじり寄って来られる。ふたりきり何も気にしないで過ごしたかったのだよ、と囁かれて、わたしからくちづけをして差し上げた。

夕顔とか申すお前など、光の君様はすぐに飽いてしまうに違いない。身分もない、歌に奥床しさも、美しさも無いお前のような女性に、光の君様は出会ったことが無くて珍しかっただけ。

強い口調のお声が聞こえて、わたしはすぐに思い当たった。光の君様が通われている高貴なお方。焼け付くような痛みのわけ、けれども、わたしが光の君様をお慕いしていると気づいたきっかけをくださった方。

そうです、わたしには何もありません。身分もなく、歌を習ったこともなく、たったひとりきりの女房がわたしを守っていてくれるだけ。光の君様はわたしを見つけて、摘んでくださった。名乗れる名も無く、生垣に絡む花に例えられるだけで有り難く思っております

それだけではない、頭の中将が先だってまで通って来ていたであろう。北の方に見つけられ、打ち捨てられたゆえ、そのような女と名乗れぬだけではないか。親友が捨てた女と言えぬだけではないか。

それは違うのです。
わたしは光の君様にお話しなくてはいけないとは、思わないのです。
あの方はいろいろとお聞きにはなりますが、わたしが答えぬことを面白くお思いです。刃向かっているのではないとわかっておられます。
初めからお調べなさって、何もかもご存知ですし、出会った由縁の花を新しい名に与えてくださいました。

愛されているというのか。
わたくしに向かって光の君様に愛されていると。

六条御息所様、あなた様は愛されておられます。

わたくし、ひとりではないではないか。
お前も愛されているという。

わたしは愛しているのです。
あの方のお心は暖かく染み入りますが、まだ数日しか知りません。
きっとすぐに打ち捨てられてしまうでしょう。
わたしはそれでかまいません。
死ぬまで、あの方の安寧をお祈り申し上げますわ。

わたくしにはもう長く通って来られるが、愛されているとは

愛されておられます。

なぜ、そのようにはっきりと

わたしは知っているのです。
あなた様のお屋敷から帰られる、あの方の寂しいお顔を。あなた様が優しくされたら、わたしの家の生け垣など、きっとちらりともご覧になりませんわ。

寂しいと……わたくしとの逢瀬が寂しいと?
やはりお前のような女など、打ち捨てられてしまえばいい。
人の世を儚く思って、病気して早死にすればいい。

なぜ…でしょうか。
わたしはきっとすぐに

そうだ、死んでしまえお前など

なぜ、でしょうか、わたしは

許せぬ許せぬ許せぬ

光の君様はきっとお嘆きになります。

全てわかっているというその余裕が許せぬのだ。

わたしはすぐに、捨てられる身ではありませんか。

そのようなことではない。
光の君様もお前も嘆けばいい、苦しめばいい。

なぜ、でしょうか
わたしは愛している、だけ

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