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20年ぶりに十二国記シリーズ1作目「月の影 影の海」を読んだ感想

※ネタバレあり
※※ヘッダー画像は小野不由美の十二国記シリーズ、山田章博のイラストより引用。

↑こちらはストーリーを自分で整理するために書いた要約記事です。よろしければこちらもどうぞ。


十二国記を知って20年、原作を初めて真っ当に読んだ

十二国記に関しては、昔BSでアニメを放送していたのを祖父が録画してくれて観ていたのでストーリーはあらかた知っていたのと、その後しばらくして原作に興味が出て、山田章博の挿絵目当てでホワイトハート文庫の原作を3作目くらいまで読んだくらいだった。

ついでに魔性の子も、ミステリ小説にはまっていたころに十二国記シリーズとしてではなく、ホラー小説を読むつもりで読んでいた。

・ホワイトハート文庫の原作3作目ほど
・魔性の子
・アニメ全話
・ドラマCD(十二国記と魔性の子)

これが今回新潮文庫の原作を読むまでの十二国記の前知識。

小さい頃に読んだホワイトハート文庫の原作は、なんだかんだ理解しないまま読み飛ばしていた部分も多かった。
それから約20年経って社会人を経験した今、色んな発見や新たに思うことがたくさんあった。


それでは感想いってみよー。


感想 20年前と今を比べて

「ネズミが出てくるまで耐えろ」

十二国記をお勧めする人の言葉として「ネズミが出てくるまで耐えろ」というものがある。
その通り、序盤から中盤にかけての陽子の災難っぷりが読んでいて辛かったり、陽子自身も弱弱しさがあるためもやもやとフラストレーションがたまる。

最初の陽子がナヨナヨしすぎていて何度か喝を入れたくなった私は、この言葉がなるほどなあと思ったし、ネズミが出てくればあとは安心なのだということを知らずに読んでいたら上巻で挫折する人がいるのも分かる。

だけど陽子はそこから様々な経験を積み、楽俊が出てくる頃には戦える強い人間になっているし、楽俊と出会ったことで精神的にも成長する。
それもあってネズミが出てくるまでと言いたくなるのだなあ…と思った。
楽俊の登場は下巻からなので、上巻で止めてしまうのであればもったいない。


時代背景を思う

この本が出版されたのは、1992年とのことで私は生まれていなかった。
1992年は一応平成だけど、作中に昭和の名残を感じていたし、陽子は教師や父親の言うなりで陽子の母親もまた同じく父親に従属しているという男尊女卑的な風味を感じる。

この頃はバブルの名残があり、専業主婦と共働きの世帯の数が入れ替わるかどうかの頃だ。
セーラームーンの放送もその頃だったと聞いた。「戦う女戦士」が当時では新しかったという話も聞いたことがあったので、作者がこの話を書いた経緯を聞いた時はなるほどなあと思った。

陽子は特に誰かをモデルにしたわけではないのですが、あえて言うなら、手紙をくれた読者の皆さんがモデルになったと思います。

――最近は少女向けの小説を書いているのですが、読者の方から手紙をもらうことが多くて、個人的な悩みを打ち明けられることが多いんです。返事をすることができなかったので、代わりに『影の海』を書きました。陽子に起こる出来事については、陽子が経験するような精神的・感情的なトラウマは、成長して社会に定着していく過程で、多かれ少なかれ、誰もが経験するものだと思っています。私も過去に同じようなことを経験して、なんとか乗り越えてきました。決まった答えはないですが、自分もいつかはそんなふうになったことがあるんじゃないかという気持ちになってもらえたらいいなと思っています。

Fuyumi Ono, Author of The Twelve Kingdoms - Anime News Network

小さい頃、共働きな上に従属しなければならない女性を何人か見て「自分は絶対結婚に向かないし、不自由になるくらいならマイノリティで良い」と思ったものだった。今はそんな人ばかりでもないことがわかっているけど。
だけど私はずっと進学をして職を得て、自分だけでも生きていけるようになりたいと思っていた。

作者の言う通りに、誰でも自分と陽子の成長とを重ね合わせる部分があると思う。


陽子の成長

水禺刀の見せる回想では、日本にいた頃の陽子は自主性が見られず、ただ父親や周囲の言うなりになり流されるまま生きてきたことがわかる。

でも十二国記の世界に一人置き去りになってからの陽子は、一人称もいつの間にか「あたし」→「わたし」になっているし、必要な時に戦うことも躊躇わなくなってゆく。
最初は妖魔を目の前に剣を捨てるような(私が喝を入れたくなった場面)もどかしさがあったのに、成長を感じられてそこからは十二国の謎も順に明らかになって爽快だった。(ネズミが出てきてからは爽快感が顕著だった)

「だから命を惜しんで軽はずみな選択をしたくない。みんながわたしに期待してるのは分かってる。でもここでみんなの都合に負けて自分の生き方を決めたら、わたしはその責任を負えない。だから、ちゃんと考えたい。そう、思ってる」

小野不由美 月の影 影の海 下巻より

上は慶国の王になるのか、日本に帰るのかを迷う陽子の台詞。
日本にいた頃の流されるだけだった怠惰な自分の生き方を悔いており、やり直そうとしての言葉だと思う。

達姐に色々なことを教わってからの陽子は、元からの応用力や頭の回転を駆使して問題を解決してゆく。
日本にいた頃に抑圧されていた分が十二国で解放されていったのだなあと思った。

「そういうのは差別っていう。楽俊はわたしを海客だからといって差別しなかった。なのに王だと差別するのか
「.......陽子」
「わたしが遠くなったんじゃない。楽俊の気持ちが、遠ざかったんだ。わたしと楽俊の間にはたかだか二歩の距離しかないじゃないか」

小野不由美 月の影 影の海 下巻より

あと個人的に陽子の好きな台詞。
これに対しての楽俊の返しも含めて好き。


楽俊の偉大さ

随所に楽俊の偉大さが表れているけど、個人的に良かった場面をピックアップしてみた。
まずばれたら殺されるだろう陽子を見殺しにできないという理由で陽子を匿う今まででいちばんの善人っぷりが凄い。

「実を言うと、置いて行かれたと分かったときにや、ちょっとだけガックリきたさ。ちょっとだけな。陽子がおいらをじてねえのは分かってた。おいらが何かするんじゃねえかって、始終びくびくしてたのもな。でもそのうち分かってもらえるだろうと思ってたんだ。だから置いて行かれたとき、分かってもらえなかったんだなぁと思って、ちょいとだけ気落ちした。けど、分かってもらえたんならいいんだ
「良くないだろう。もうわたしなんかに、構わなければいいのに」
「そんなのおいらの勝手だ。おいらは陽子に信じてもらいたかった。だから信じてもらえりゃ嫌しいし、肩じてもらえなかったら寂しい。それはおいらの問題。おいらを肩じるのも信じないのも陽子の勝手だ。おいらをじて陽子は得をするかもしれねえし、損をするかもしれねえ。けどそれは陽子の問題だな」

小野不由美 月の影 影の海 下巻より

楽俊と再会し、見捨てていこうとしたこと・殺すべきか迷ったことを負い目に思う陽子に言った言葉。楽俊の器がでかすぎる。

この少し前に陽子が青猿を切り捨てた時、「自身が人を信じることと、人が自分を裏切ることは何の関係もない」「自分に誰一人として味方がいなくても、他者を信じず害することの理由になどなるはずがない」と青猿を切り捨て、幻影から解放されるけど、それとも似た考え方。

陽子を許す台詞も素晴らしいのだが、はぐれた楽俊とやっと再会できた場面を読んだ時の私のテンションはヤバかった。楽俊良いやつすぎる…。

「あのなぁ、陽子。どっちを選んでいいか分からないときは、自分がやるべきほうを選んでおくんだ。そういうときはどっちを選んでも必ずあとで後悔する。同じ後悔するなら、少しでも軽いほうがいいだろ
「うん」
「やるべきことを選んでおけば、やるべきことを放棄しなかったぶんだけ、後悔が軽くて済む」
「うん……」
頬を軽く叩いてくれる掌が温かい。
「おいらは陽子がどんな国を造るのか見てみたい」
「.....うん。ありがとう……」

小野不由美 月の影 影の海 下巻より

慶王になるか帰るのか迷っている陽子に楽俊が2度目の説得をする場面。
こんなことを言われたら王にならざるを得ない。選ばざるを得ないやん。楽俊の説得は凄い…見ようによっては策士とも取れるくらいの説得力がある。

あと楽俊については雁国へ向かう前に陽子言った「おいら、職がほしいよ」という台詞にめちゃくちゃ切なさを感じた。(巧国では優秀でも半獣であるというだけで職が見つけられない)
これも社会人を経験してからの共感だなあと思う。


記憶の中のアニメとの違い

最初は読みながら小さい頃リアタイで見ていたアニメとの違いが浮かんだ。
そっかアニメでは主要キャラの杉本も浅野くんも出てこないんだ。しかも泰麒や延王たちのエピソードは陽子が景麒を助けるまでに知れることだけど、それも原作では別の巻に収録されているので出てこない。

原作よりも最初にアニメを見たせいか、原作になかったキャラクターもいたのには驚いたけど、どのオリジナルキャラクターも良い味が出ていたと思った。
特に杉本と浅野の二人は、最初十二国に迷い込んだ陽子と同じ立場で、視聴者が陽子の不安に感情移入する上での孤独感や不安感が減ったと思う。

杉本は原作ではクラスメイトのいじめられっ子として、冒頭と水禺刀で見る陽子の回想でしか登場しなかった。
アニメでは魔性の子での広瀬のように、日本に自分の居場所を見出せずにいることなどもあり広瀬と重なる部分がある。アニメでは登場が大幅に増え、敵側の巧国につくことで陽子と対立する。
杉本は卑屈なキャラなので好き嫌いはあるだろうけど、陽子とは違い自分の場所が結局は日本であることを受け入れることも、陽子とは違った道を選んだ対比としてわかりやすかった。

杉本は小さい頃見た時よりも今の方が理解できる、いやな奴だけではない潔さを持ったキャラクターだと思う。
原作では陽子の失踪後に「自分が犯人だと疑われても良いから正直に言うけど、自分は八方美人で誰にでも良い顔をする陽子が嫌いだった」と水禺刀の中で話している。言っていることはわかる。

小野不由美・山田章博 十二国記Blu-ray表紙より
杉本と浅野。浅野の活躍はもっと後。

最初はアニメの映像が浮かびながら読んでいたけど、読み進めるにつれ、頭の中で原作の絵が動き出すようになった。原作に没頭できたからだと思う。
原作もアニメもどちらも好きだけど、アニメを最初に見て設定を知っていたので、読み進めやすかった。

ちょっと今からでもBlu-rayほしい。


松山誠三と壁落人、出てくる2人の海客の対比

巧国で初めて出会う海客のおじいさん松山誠三、今と昔で印象がちょっと違う。
最初にアニメで見た時は第二次世界大戦のことや戦争の話もほぼ知らなかったから、昔はただヒステリックなイメージが強かった。
言葉のわかる陽子とわからないまま40年以上過ごした自分を比べて、卑屈になってしまい、陽子の財布を奪って消えるのだが、許せないのは変わりないけど昔よりも同情的に読むことができた。(実際いたら許さないし法的措置をとるだろうけど)
そして下巻まで読んで、もう一人の海客、壁落人と対比になっていたのだとわかった。
最後に陽子を裏切ったからやっぱりイメージは悪いけど。

上巻で登場する松山誠三と対比的に出てくるのが、雁国で出会う壁落人(ヘキラクジン)。

「わたしは時代に疲れていたので、新天地に来たことが嬉しかった。わたしは故国に帰ることを熱望していない。王にお会いすれば帰してもらうなり、何か解決策が見いだせるかもしれないと分かったときには、こちらに慣れて帰ることなどどうでもよくなっていた」

小野不由美 月の影 影の海 下巻より

そして、日本の話をしようかという陽子に「そこはわたしが革命に失敗して逃げ出してきた国」だと未練はない様子。
この人は最後まで自分の日本での名前を名乗らない。話す通り、新天地でやり直しているのだ。

この二人は、同じように日本から慶国に流されてきたが、全くとらえ方が違う上に幸福度も違うだろう。また、慶国からその後海客の扱いの違う巧国・雁国へそれぞれ向かったことも大きな違い。選択肢があること、学があるかどうかというのは、本当に大事だと思う。

壁落人とは違い、松山誠三は今なお苦しい状況にいて、自分や相手を助ける道を選ぶことも、考え方を変えることもできなかった。海客になったことは違うにしても後半は自己責任だということも自分では理解できていないだろう。
大人になった今は可哀想な変われない人なのだと憐れむ気持で見るようになってしまったのだった。

なによりその人の幸福を決めるのは、その人の考えとその後の行動なのだなあと大人になった今思った。


王でいることの過酷さ 塙王と舒覚

原作では、間違ったことをしている自覚がある塙王が無理矢理に塙麟に命じている感じが強くて可哀想だった。
アニメの方では塙王自らが陽子を殺そうとしたのを塙麟が庇い、死んでしまう。

どちらも可哀想だけど、アニメの塙麟は自分の王に王殺しなどはさせたくなかったという王を思う気持ちが出ていて原作はただ王の意向に逆らえない麒麟という立場に見えてより可哀想に思えた。

塙王の陽子を狙う理由が、他の治世の長い王への嫉妬やできない自分に絶望してヤケクソになっているというものだけど、これが職場だとしたらとんでもなく迷惑だ。王になるほどの器があっても、嫉妬や自分に絶望することからは逃げられないのだ。とても人間らしいと思う。

舒覚は景麒に恋着したことで、国中から女を追い出そうとした結果自分の執務を全うできずに王としての道を失ってしまう。

これも社会に出てから考えると、「突然身に余る責任を負わされた上司と恋愛と仕事を仕分けできずに仕事のプレッシャーにやられてしまった上司」のように思えてきて、わからなくもない気はしてしまう。

王でいることの難しさは上司でいることの難しさとも重なった。
これは絶対社会に出てからじゃないとない感想だったなあ…と自分ながらに思うのだった。
ただその度、麒麟や民が巻き込まれるのは可哀想だ。本人も可哀想なんだろうけど。そんな視点が芽生えた。


素朴な疑問

子どもは胎果から生まれるのに、男女があって女郎宿まであるのは不思議だなーと思った。

陽子は頷き、ふと疑問を感じたが、あまりにはしたない質問なので尋ねるのは思い留まった。遊郭があったりするのだから、まあ、そういうことなのだろう。

小野不由美 月の影 影の海 下巻より

ここにもあるようにまあはしたない話題だよなあとも思うので、ここでおしまい。


まとめ 今も昔も十二国記がおもしろかったのは間違いない

小さい頃、私は両親が共働きだったので母方の祖父母の家にいることが多かった。
そこで祖父はドラえもんやその他子ども向けな番組などを録画してくれていて、十二国記のアニメはそのうちの一つだった。(NHKの新アニメだったからという理由)
アニメ開始が2002年だから、私がこのシリーズを知ったのは小学校最初のころの話で、あまりにも暗い展開続きなのを見かねた祖父が「もう録画するのやめるか」と聞いてきたことがあった。
私は数少ない娯楽がなくなるのが嫌で見る!と言って、見続けた。
その後はどんどん話が展開していったし、暗いばかりの展開でもなくなったので、こんなに面白い作品を見られて良かったと思った。

その頃に十二国記を知ったから、今原作を読み返して昔と思い比べることができた。本当に読んで良かったと思う。

今後のシリーズも読み進めて、できればブログにまとめられたら良いなあ。

おしまい。


関連図書&今後買う予定のものたち

原作本。少しずつ新潮文庫の方で買い足していくぞー。

ある程度シリーズを読んだら読む予定のガイドブック。

山田章博のイラストが好きで小さい頃ホワイトハート文庫の方を買っていたくらいなので、画集も欲しくなってくる…。
十二国記の原作が面白すぎて購買欲を押さえきれるかどうか今後の課題だ。

2025年の12月31日にオーディオブックが配信されるらしい!
1年近く後だけど、聴いてみたいなあ。

↑2か月間99円で体験できる。これが年末まであればなあ。。2月4日までだそうな。


今後増えてゆく予定の十二国記関連記事


ではでは。

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ばくの子
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