フェミニズム思考では「女が短所で嫌われること」は社会が悪いんだとさ
「『かわいくない女』は罪なのか?愛されないのか?『かわいい』は、どこか支配的なにおいがする」という以下の記事が出た。表題からは「女性に関するルッキズムへの批判なのかな?」と思わせる。しかし、ページを開いて読んでみると、外見ではなく性格の話であった。
この記事のトピックが良く表れている冒頭の文を引用しよう。
次いで、表題および冒頭に登場する「かわいい」という形容詞が外見を指すのではなく性格上の特徴を指すことを示す文も引用しよう。
最後に、この記事の結語にあたる部分を引用しよう。
この結語に関して性別を抜きにすれば、個性や多様性が重視される昨今の価値観に則った見解である。
その人はその人。かわいかろうがかわいくなかろうが、その人のキャラクターで勝負していけばいい。
「かわいい」にいつまでも価値を置く必要はない。人は生きたいように生きていくのがいちばんなのだから。
上記の内容に関して否定する人間はいない。しかし、根本的なところで亀山氏は何か勘違いをしている。基本的に「かわいげがある」というのは性格上の美点なのだ。つまり、「かわいげがある」というのは「優しい,勇気がある,忍耐力がある,真面目である,朗らかである,・・・」といった美点と同じ、性格上の美点の一種なのだ。そういった性格上の美点がある方が望ましいが、無ければないで一切が否定されるわけでもないのは当然のことなのだ。
優しかろうが優しくなかろうが、勇気が有ろうが無かろうが、忍耐力が有ろうが無かろうが、真面目であろうが無かろうが、朗らかであろうがなかろうが、その人のキャラクターで勝負していけばいいのは当たり前の話であり、「かわいげ」についても同様なのだ。なにも「かわいげ」という美点だけの話ではない。
また、優しさ・勇気・忍耐力・真面目さ・朗らかさなどを、人間の性格おける必須の価値としなければならない訳でもないのは当然であり、「かわいげ」についても同じことなのだ。
さらに批判すべき点はまだある。むしろ、ジェンダー平等の視点からは次の論点の方が重要である。
引用した箇所から明らかなように、亀山氏は性格上の美点の一つである「かわいげ」に関して、何やら女性限定で結びつく美点であるかのように捉えている。ところが、我々がある人物に対して「かわいげがある/ない」と評する場合について、その人物の性別が女性の場合に限ってはいない。男女どちらであっても「かわいげがある/ない」と評している。更に言えば、「かわいげ」は人間に限定した美点ですらないのだ。
このことを以降で明らかにしていき、そのことで如何に亀山氏と記事のキヨコさんが「女性が不快に感じた=女性は被害者」というフェミニズム図式に囚われた性差別主義的な思考に陥っているかを見ていこう。
■女性限定とはいえない「かわいげ」という特徴
先に述べたように、亀山氏(および記事のキヨコさん)の奇妙な所は性別と「かわいげ」という性格の特徴とを結び付けているところにある。しかし、彼女らの想定とは異なり、性格上あるいは行動上の特徴の「かわいげ」というものは男女共にある上に、対象を人間に限らず動物にまで拡張しても当てはまる特徴である。
このことを「かわいげがある/ない」と感じさせる動物の具体例で見てみよう。
例えば、鹿煎餅をもって奈良の公園に行くと鹿が集まってくるが、この鹿をみて「おぉ、カワイイなこいつ等」と感じることがある。もちろん、猛烈な勢いで大量の鹿が殺到してくるとかわいげを通り越して恐怖を感じるが、基本的に鹿煎餅をねだる鹿にはかわいげがある。また、池の傍に行くと公園の池の鯉が集まって来て餌をねだる様子もかわいげがあると感じる。だが、仮に鹿煎餅を持って行っても鹿が見向きもせず、パンくずの袋をもって池の傍に行っても鯉が集まってこないならば、一部の動物・魚類好きの人間を除く一般の人々が奈良公園の鹿や公園の鯉にかわいげを感じず、「一般の人々から奈良公園の鹿や公園の鯉が好かれない、愛されない」という事態に陥ったとしても不思議ではないだろう。
もっと身近な例としては友人が飼っているペットなどを想像してみよう。
飼い主以外の人に対しても人懐っこい犬がいたとしよう。そんな人懐っこい犬に対して「かわいげのある犬だなぁ」と感じることはよくある話である。また、飼い主ではない自分に対してもお手やお座りをする犬に「カワイイ犬だなぁ」と感じることは珍しくない。一方で、その犬がもしこちらに全く無関心なのであれば、特段犬好きの人間でもなければ悪感情は抱かずとも好意的感情も持てず、こちらも無関心になるだろう。さらには、こちらに歯を剝き出しにして吠え掛かるような犬であれば、飼い主は別として「かわいげが無い犬だ」と感じる人間が多数であろう。そして一部の大の犬好きと飼い主を除いて「一般の人々からその犬が好かれない、愛されない」という事態になったとしても不思議ではない。
これらの動物の例から、行動上の特徴あるいは性格の「かわいげがある/ない」は女性限定の特徴ではなく、それどころか人間以外にも用いられる行動上の特徴あるいは性格であることは明らかであるだろう。
とはいえ、具体例が動物であると「動物における『かわいげ』の用法は人間のそれとは別になるのではないだろうか?だから人間に関しては女性限定なのでは?」という疑問を持つ人が居るかもしれない。そこで次の具体例として、記事のキヨコさんの小学生時代に対応する、YouTuberのゆたぼん氏の小学生時代を具体的に思い起こしてもらうことにしよう。ゆたぼん氏はキヨコさんとは違って性別が男であることをもって、「かわいげ」という性格上の特徴への評価から自由であるかどうか検討していくことする。
■「かわいくない男児」は居らず「かわいくない女児」だけが存在するだろうか?
前節で明らかにしたことを踏まえた上で、記事において登場するキヨコさんの小学生時代のエピソードに対応する形で、具体例として「小学生時代の(少年革命家と自称していたYouTuberの)ゆたぼん氏」を取り上げ、小学生の男児の「かわいい」「かわいげ」について考察してみよう。
小学生時代のゆたぼん氏の話を聞いて以下のような感想を抱く人間は少なくないだろう。
もちろん、上記のような感想の類しか他人から抱けれないような、単純な嫌われ者としてゆたぼん氏を見ることはできない。なぜなら、彼の日本一周旅行のクラウドファンディングには数百万円の資金が集まったのだから、その金額に対応する好意も彼は得ている。それがたとえ時限的な"若さ・幼さ"に由来する魅力であっても、彼の行動を評価し、資金援助をするほどに好意を抱いた人間はいるのだ。
とはいえ、当時のゆたぼん氏に向けられた批判から窺える一般的な日本人的感性によれば、彼は「かわいげのない男の子」である。なぜなら、彼は「日本の大人たちの常識」に反する意見を、その妥当性はさておき、声高に主張して日本の大人たち(ないしは日本社会)を非難していたからである。そうした「彼のかわいげのない性格あるいは言動」から、「彼は大人から好かれず、愛されない」と判断されていたと言えるだろう。したがって、記事の女性であるキヨコさんが小学生時代に経験した以下の体験と同様の体験を男性であるゆたぼん氏も小学生時代に経験しているのだ。
つまり、上記の引用において太字で強調した「女の子には」という限定は、フェミニズムによって視野狭窄した思考から出てきた「性別が女の場合だけが被害者となり、性別が男の場合は被害者とはならない」という、いつもながらのフェミニズムによるセクシズム(=性差別主義)によるものだ。大人たちに反論した女性であるキヨコさんにも、大人たちに反論した男性であるゆたぼん氏にも、「かわいくない」との非難が同じように投げつけられている。したがって、「人は反論されると、女の子には『かわいくない』と言う」と女性限定の出来事であるかのように認識するのは事実誤認であるのだ。
「かわいくない男の子」として想起し易いゆたぼん氏を例にとって考察してきたが、「かわいくない男の子」など身近にいくらでも居る。むしろ、憎たらしくかわいくない子供は男児の方がイメージし易い。生意気な口をきいて大人のいう事を聞かない"悪ガキ"と評される子供として真っ先に思い浮かぶのは男児であり、女児ではないだろう。
つまり、性格上あるいは行動上の評価軸である「かわいい・かわいくない」という基準が適用される対象が女性だけなのかどうか、自省する機会はいくらでもあるのだ。
それにも関わらず、亀山氏は「低評価を受けるのは性別が女性の場合だけ」というジェンダーバイアスに基づいて記事を書いているから無批判にキヨコさんの見解を記事に載せてしまうのである。
したがって、亀山氏がフェミニズムによるセクシストであると判断できる理由は、子供ゆえの拙い考えで大人に口答えしている子供を実際に見かけたときに「かわいくない子供だなぁ」という感想が性別で変化するかどうか、すなわち、男児の場合ならば「かわいくない子供」とならずに女児の場合にだけ「かわいくない子供」となるかどうか、内省してみることすらしていないことによるのだ。
また同様に、大人の男性の性格や行動上の特徴に言及されるシーンにおいて、「かわいげのない後輩」「彼は上司からかわいがられる性格だ」という言葉が、男性に対しても投げかけられているようなケースはいくらでも想像がつくにも関わらず、性格や行動上の特徴の「かわいげ」「かわいい」という評価が女性限定と考えているあたりに、亀山氏や記事のキヨコさんが「女性が不快に感じた=女性は被害者」というフェミニズム図式からしか思考できないセクシストであることが明らかであると言えるのだ。
■追記:ジェンダー別で「異性よりも求められる性格」はある
これまでの議論の補足をしておこう。というのも「かわいげ」に関するジェンダー差は存在しているだろうからだ。この点に関しては注意が必要である。ただし、「かわいげ」に関してジェンダー差があったからとて、亀山氏や記事のキヨコさんの主張が正しいわけではないことも申し添えて置く。そこでまず、どういう思考の誤りを亀山氏や記事のキヨコさんがしていたを明らかにしておこう。同時にそのことによって「かわいげ」に関するジェンダー差とはどのようなものであるかを示すことができるだろう。
まず、亀山氏や記事のキヨコさんが間違っているのは、デジタル思考すなわち「0か1」かで考える思考の枠組みでこの問題を考えている点にある。すなわち、
「かわいげがある」と称賛されるのは女性だけ、男性は関係ない
「かわいげがない」と非難されるのは女性だけ、男性は関係ない
と見做しているところにある。つまり、「かわいげがある」も「かわいげがない」も女性だけが「1=評価軸がある」で、男性は「0=評価軸がない」と認識しているのだ。
ちょっとこの「1と0」をパラメタとして捉えて人物評価をモデル化してみることで、亀山氏の考え方のおかしさを示してみよう。
まぁ、実際の人物に対する評価関数が上記のような1次関数の形をしているのかどうかはさておき、簡素化して考察するには好都合なため、以上のような形をしていると仮定しよう。
さて、上記のモデルを解説しよう。
ある人物を評価するとき、様々な要素を勘案して評価する。つまり、特段「かわいげ」だけから評価するわけではない。ただし、このことは「かわいげ」だけで評価されるシーンが決して存在しないということを主張しているわけではない。場合によっては「かわいげ」だけで評価されることもあるだろうが、一般的には他の要素も含めて人物評価が行われる。したがって、その人物に対する評価Eは、その人物の「かわいげの度合いX」の大きさによって決まる「abX」の値と、その他の要素によって決まるCの値の合計で決まる。
「abX」の項について詳しく解説しよう。
まず「a」であるが、これは性別毎の「かわいげ」が重視されている度合いを示すものである。大きければ大きい程重視されていることを示す一方で、0に近づけば近づくほど人物評価に影響を与えないことを示す。また「a」の値が0のとき、「かわいげ」は人物評価に一切の影響を与えない。
つぎに「b」であるが、これはシーン毎の「かわいげ」が重視される度合いを示す。我々の人生の様々な局面において「かわいげ」が重要な働きを見せる局面もあれば、別にどうでもいいような局面もある。例えば、何かを指導している際には相手の「かわいげ」というのはかなり重要だ。教えたことを素直に聞き入れるかわいげのある相手は指導によって伸びていくが、いちいち突っかかってくるような反抗的なかわいげのない相手であったならば、指導していてもその効果が現れにくい。成長という視点では指導の効果の大小だけで語れるものではないが、指導の効果に限定すれば、やはり「かわいげ」というものは重要な要素となる。逆に、一人で黙々と何かを行うシーンにおける評価では「かわいげ」というものは重要ではない。そのような局面においては「真面目さ」等の別の要素が高く評価され、「かわいげ」は評価項目として殆ど無視されるだろう。こういった、シーン毎の「かわいげ」の重要さを表すパラメタが「b」である。
最後に、個々人の「かわいげ」の度合いを示すものが「X」である。「かわいげ」という評価軸で好意的感情を齎す場合は正の値をとり、嫌悪感情を齎す場合は負の値をとるとしよう。つまり、「かわいいなぁ」と感じさせるような場合は正の値となり、「なにコイツ、憎たらしいな」と感じさせるようであれば負の値となる。
以上、モデルの解説は終わったので、このモデルを用いて亀山氏の考え方のおかしさを明らかにしていくことにしよう。
さて、亀山氏の考え方を当該モデルで示せば、「性別による『かわいげ』の評価のパラメタ:a」に関して、男性の場合は0となり、女性の場合は1となると考えていると言える。つまり、以下のように考えているわけだ。
男性のシーン毎の人物評価:E=0・bX+C=C
女性のシーン毎の人物評価:E=1・bX+C=bX+C
上記の2つの式は、男性はシーンが変化しても「かわいげ」というものが一切人物評価に影響することはない一方で、女性は「かわいげ」による人物評価への影響があることを示している。
この「男性への人物評価E=C」と「女性への人物評価E=bX+C」という認識は、前述の小学生時代のゆたぼん氏を反例として示せば間違っていることが明らかである。それというのも、小学生校時代のゆたぼん氏への人物評価に「かわいげ」の要素が入っていないとは到底言えないからだ。
つまり、「男=0,女=1」と認識する亀山氏のデジタル思考は現実から遊離していると言える。
とはいえ、一切のジェンダー差が存在しないかと言えば、そんなことは無いだろう。すなわち、
(男の"かわいげ"の評価パラメタ) < (女の"かわいげ"の評価パラメタ)
という事態は当然有り得る話である。
だがここで注意を促しておくが、上記の性別で分かれたパラメタの大小関係に関しても、この大小関係ゆえに「男が有利で女が不利」といったことは一概には主張できない。
今回の批判対象の記事に登場するキヨコさんは「かわいげの度合いが負の値になっている人物」であるから総合的な人物評価として上記のパラメタの大小関係に依って不利益を受けたが、逆に「かわいげの度合いが正の値になっている人物」であれば、性別が女性であることで男性よりも利益を受ける。
このことは「男=0,女=1」の認識枠組みで考えたとしても結論に大した違いはない。
実に奇妙な話なのだが、フェミニスト達がつねづね社会において問題視する「男性有利な社会構造」というべき構造と同様の、立場が男女で逆転した構造、すなわち、いつものフェミニストの理屈に則れば「女性有利な社会構造」というべき構造があるのだ。つまり、「かわいげ」によって構築される社会関係に関して、「女性は上位層が多数いる一方で下位層も多数いる。男性は下位層が少数である一方で上位層も少数である」という構造にある。
フェミニストは常々、下位層に位置付けられて死屍累々となっている男性の存在を無視して上位層の勝ち組の人数の多さだけで「男性有利だ!」と主張してきたはずである。女性が「ガラスの地下室」に転落しないセーフティネットの厚さのメリットは黙殺し、到達することのできない「ガラスの天井」だけを問題視してきたはずである。
「上下にバラけている立場こそが優位にあり、中間部に固まっている立場は劣位にある」というお決まりのフェミニストの価値観はどこにいったのだ?と言う話である。
男性は上下にバラける立場に立たされて女性は中間部で固まっている立場にいるときは「お前たちは上にいける特権を持っている!」とフェミニストは男性を非難する。だが逆に、女性が上下にバラける立場にいて男性は中間部で固まっている立場であるときは「お前たちは下に行かない特権を持っている!」とフェミニストは男性を非難する訳だ。どんな立場に居ても被害者ポジションを主張する。
なんともまぁ、ご都合主義な話である。
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