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「男が大黒柱から降りる」議論においてすらジェンダー差別意識がある

 男性に関するジェンダー差別が取り沙汰される際に「男性の"生きづらさ"も旧弊のジェンダー規範により生じている。男性も旧弊のジェンダー規範から自由になろう!」という形で議論が為される。しかし、このジェンダー規範に呪縛されていることを問題視するにあたって観点が男女で違う。大抵の場合、女性がジェンダー規範に呪縛されているときは「他者からの押しつけ」という観点から問題にされるのに対して、男性がジェンダー規範に呪縛されているときは「自らが手放せない」という観点から問題にされる。

 すなわち、フェミニズム思考の認識枠組みに従って女性に関しては他者に責任があり、男性に関しては自分に責任があるとされる訳だ(註1)。これは観察された事実から「女性のケースは他者に責任があり、男性の場合はその人間に責任がある」という結果が得られた故の認識ではない。最初からかくありきで認識しようとするという、フェミニズムに汚染されたアンコンシャスバイアスに基づく認識なのだ。

 さて、現在のジェンダー不平等な家庭での役割に関する問題に関して「悪いのは全て男性、女性は何にも悪くない」という、如何にもフェミニズム思考の女性無罪論に基づく記事が出たので、今回のnote記事ではその記事を取り上げよう。


■妻のモラハラ発言の暴力性を無視する異常な認識

 明確に異常であると断言できるのは、当該記事の以下の箇所である。

 拙著『妻に稼がれる夫のジレンマ』(ちくま新書)では、スーパーでの買い物時、自分の欲しいモノを一度は手にしたものの、妻が稼いだお金を使うことに躊躇し、棚に戻したり、夫婦げんかの際「今、ニューヨークに住めてるのは、私のおかげじゃん」などと妻から捨て台詞を吐かれ、打ちひしがれた駐夫の姿を描いた。駐夫とは別に、妻の年収が上回り、大黒柱の座を失った自らに悶々とする男性の複雑な意識変容も取り上げた。

“男子たるもの稼いでナンボ”の「生きづらさ」 
;ジェンダー平等に向けた「令和モデル」に切り替えを
 小西一禎 AERA 2024年8月26日号 (強調引用者)

 記事を読むと分かるのだが、引用箇所にある妻のモラハラ発言が実にあっさりとスルーされている。この妻のモラハラ発言はこの箇所以外でまったく言及されていないのだ。家事負担者となった夫へのモラハラ発言の暴力性は、記事において無いものとして無視されている。ミラーリング(男女を入れ替える)してみるとハッキリとわかるが、家計負担をしている夫が家事負担をしている妻に対して同じモラハラ発言をしたら確実に大問題として議論の中心に据えられるだろう。信じがたい程の異常さである。

 更には、主たる家計負担者となった妻のモラハラ発言によって生じた家事負担者となった夫の生きづらさ・ストレスを、妻のモラハラ行為の暴力性によって発生しているのではなく、旧弊のジェンダー規範からくる男のプライドを捨てきれていない夫の意識から来ているとするのだ。その様子を記事から確認しよう。

政治記者時代の私は、男性が下駄を履いていることに気付かず、「男子たるもの、メインとなって稼いでナンボ」という感覚に完全に呪縛されていた。渡米して、初めて「稼得能力=稼ぐ力」を失い、茫然自失となった。

同上 (強調引用者)

駐夫とは別に、妻の年収が上回り、大黒柱の座を失った自らに悶々とする男性の複雑な意識変容も取り上げた。

同上 (強調引用者)

男性の意識を変えるのは容易ではないが、収入逆転や早期退職、育児や病気、介護などに伴うキャリア中断など、価値観が変わる可能性があるきっかけは少なくない。

同上 (強調引用者)

 上の引用箇所から小西氏の認識が理解できただろうか。先の主たる家計負担者となった妻のモラハラ発言は、「男子たるもの、メインとなって稼いでナンボ」という旧弊のジェンダー規範からくる男性の自尊心を損なう発言としての側面だけが記事の中では意識されている。非常に俗っぽい言い方をすれば、くだんの妻のモラハラ発言は「稼げていないアンタは男としてザーコw」という男のプライドを傷つける側面しか小西氏は見ていないのだ。

 つまり、どこまでいっても稼いでナンボとのプライドを捨てきれない男性の問題とされているのだ。本当になんだそりゃという話である。

 更に言えば、男性が大黒柱の役割を降りたとしても、その行為に対して女性が男性をバカにするならば、小西氏が考えるジェンダー不平等など解消しない。男性が意識改革しても女性が挫折させるのであれば、社会と家庭双方の男女共同参画など夢のまた夢だ。男性が女性に対して言い放ったならば大問題となるモラハラ発言が、発言者が女性であるが故に免責されているのであれば、ジェンダー平等など程遠い。この事例からも男性側の意識改革だけでなく女性側の意識改革も併せて必要であることが明白である。しかし、そのことについて当該記事において何も触れられていない。まったくもって異常である。

 ここから窺えることは、「女性はイノセントな存在で如何なる行為をしても現在の男尊女卑社会において加害者となることはない」というフェミニズム思考からのトンデモ認識である。フェミニズムの威光に這いつくばって「女性様が間違うことはありません。すべては男どもが至らないせいです」とフェミニストの靴を舐めてご機嫌を取ろうというわけだ。


■男性が悪者になるときだけ家計負担者の責任が追及される

 さて、記事において「女性が生きづらいのは男性のせい」との男性悪玉論が展開されている。元凶という意味では現代日本の労働慣行が挙げられ、それを改善すべきとの提言が取り上げられているので、男性悪玉論かどうか微妙ではないのかとの見方もできる。

 しかし、ニワトリが先かタマゴが先かのような相互的な関係性、すなわち資本主義体制下の労働慣行が先か、男性が長時間労働可能な家庭の有り方が先かとの関係性に対する、小西氏の認識は「男性が原因としては先でしょ」との認識であるようだ。労働形態の歴史的推移をみると資本主義体制下の労働慣行の方が先であると言ってよいように私には思われるが、その辺りは上部構造と下部構造の相互性として考えなければならない部分もあるので、議論としては踏み込まないでおこう。

 ただ、記事において小西氏は男性が変われば企業も変わるんじゃないのかなといった類の無根拠の見通しを暗に示している。それというのも、当該記事を通して小西氏は男性が意識改革すれば男性の生きづらさは万事解決との認識でいる。つまり、「男性の意識改革→企業の労働慣行の変化→労働慣行の変化による男性のストレス・生きづらさ軽減」というルートを小西氏は思い描いているのだ。まぁ、風が吹けば桶屋が儲かる式の発想だが絶対にあり得ない話でもない。したがって、我々は「ふーん。そうなったらいいね」との楽観的見通しに接したときに取る態度で居ればいいだろう。

 さて、上記のような気宇壮大な見通しを小西氏はしているのだが、同じ枠組みでもう少しミクロな視点で男性批判を繰り出してもいる。ただし、そのときに用いている枠組みは男性が悪者になるときだけしか適用されない。だが、その枠組みをよくみると「男性-女性」の関係ではなく、「主たる家計負担者-家事負担者」の関係で生じる構造である。このことを以下の引用箇所から確認しよう。

 男性は社会的規範への忠誠を求められ、束縛される。長時間労働と相まって、どことなく生きづらさを抱える。そんな男性のあおりを受け、女性にもストレスが直撃し、生きづらさに直面する。男女ともに生きづらさを抱く底流には、この側面があると考えている。

同上 (強調引用者)

 まず、以下の部分は"男性"が主語となっているが、言っている内容に関して主たる家計負担者であれば男女を問わないものだ。

社会的規範への忠誠を求められ、束縛される。長時間労働と相まって、どことなく生きづらさを抱える。

再掲

 したがって、この箇所は「主たる家計負担者に関して置かれた環境が生きづらさを生んでいる」という主張である。因みにこの箇所の主張に関しては異議はない。確かに、社会的規範への忠誠要求と束縛そして物理的な長時間労働は家計負担者を疲弊させ、生きづらさを感じさせることだろう。

 さて、続きの文において「そんな主たる家計負担者のあおりを受け、家事負担者にもストレスが直撃し、生きづらさに直面する」という主張が為されている。もちろん、原文においては「主たる家計負担者=男性」「家事負担者=女性」となっているが、主張がいうところの構造においては性別は関係しない。

 つまり引用箇所において小西氏は、以下の因果関係をもった構造で夫婦のストレス・生きづらさは発生するとしている。

[1]から[2]が生じ、[2]から[3]が生じるという因果関係
     ~[1]→[2]→[3]という因果関係~
   
[1]主たる家計負担者が置かれた環境
   [2]主たる家計負担者のストレス・生きづらさ
   [3]家事負担者のストレス・生きづらさ

ストレス・生きづらさの負の連鎖 (筆者作成)

 さて、仮定の話として上記の因果関係をその通りであるとしよう。このとき、家庭における役割分担に関して主たる家計負担者から家事負担者にシフトした「男性=夫」のストレス・生きづらさは主たる家計負担者である「女性=妻」から齎されるハズである。実際に記事において紹介された事例では、夫婦げんかの際には妻からのモラルハラスメント、すなわち「今、ニューヨークに住めてるのは、私のおかげじゃん」などと妻からモラハラ発言を吐かれるといった形で、家事負担者となった夫の生きづらさ・ストレスが主たる家計負担者の妻が原因で発生していることが窺える。

 しかし、「家事負担者の生きづらさ・ストレスの責任は主たる家計負担者にある」という認識枠組みは、男性が悪者になるときだけ適用され、女性が悪者になるときは適用除外されている。女性である妻が家事負担者であるときは主たる家計負担者である男性の夫によって生きづらさが生じるとされる。一方で、男性である夫が家事負担者であるときは、主たる家計負担者となった女性の妻がいくらモラハラ行為をしようが、旧弊のジェンダー規範からくる「稼いでナンボ」という男のプライドを捨てきれていないから生きづらさやストレスが生じるとされるのだ。

 ストレス・生きづらさに関する男女の責任論ではなく原因の認識論の観点で見ても同様の問題がある。

 「ストレス・生きづらさを抱えた主たる家計負担者が家事負担者に対してストレスをぶつけることによって家事負担者の生きづらさが発生する」というストレスの負の連鎖構造を小西氏は指摘する。このこと自体はごく一般的な「ストレスや生きづらさを抱えた人間がそのストレスを他者にぶつけ、ストレスをぶつけられた他者はそれによりストレスや生きづらさを抱える」との事態のバリエーションの一つと言ってよいので異論は無い。

 したがって、「主たる家計負担者が夫で家事負担者が妻の夫婦」に生じる男女のストレス・生きづらさ問題で、家計負担によって慢性的にストレス・生きづらさを感じる夫が妻にストレスをぶつけているであろうことを根拠に、男性である夫を悪者に仕立て上げる事自体は、それはそれで一つの見解であって理解できる。

 しかし、同様のストレスの負の連鎖構造が生じるであろう男女で、立ち位置が逆になった夫婦に関して、夫に対する妻の明白な加害が存在しているにもかかわらず、家事負担者となった夫のストレス・生きづらさに関して、ストレスの負の連鎖構造を無視するのだ。

 明らかに認識が歪んでいて異常である。他者からストレスをぶつけらることでストレスが生じるというストレスの負の連鎖で男女の生きづらさを見るなら、ストレスをぶつける側の性別が男だろうが女だろうが関係が無く、同様に、ストレスをぶつけられる側もまた性別が男だろうが女だろうが関係が無い。「男性加害者-女性被害者」のときはその枠組みで事態を認識する癖に、なぜ「女性加害者-男性被害者」ときはその枠組みで事態を認識しないのか。

 小西氏の男性差別的なダブルスタンダードには憤りを感じずには居られない。まったく「フェミニズムから社会問題を意識してるんです」という人間の認識における、女性にとって不都合な事柄に対するエアポケットはいったい何なんだろうか?


■稼得能力による家庭内ヒエラルキーへの矛盾した態度

 「ストレス・生きづらさを抱えた主たる家計負担者が家事負担者に対してストレスをぶつけることによって家事負担者の生きづらさが発生する」という"ストレスの負の連鎖"と表現できる家庭問題を前節で取り上げた。この手の問題提起では、THE BLUE HEARTS『TRAIN-TRAIN』の歌詞の一節「弱い者達が夕暮れさらに弱い者をたたく」がエピグラフとしてしばしば登場する。この一節をエピグラフとしようとする認識自体に、「家事負担者は主たる家計負担者に対する従属的地位にある」とするとの、少々問題のある認識がある。

 もちろん、その認識を前提に「だからこそ夫婦は50:50で家計責任と家事責任の双方を各々負うべきなのだ」とのジェンダー平等主義の考え方もある。一方で、「家計負担者が上、家事負担者が下」という家庭内ヒエラルキーをつくり出す価値観はおかしいとするジェンダー平等主義もある。

 小西氏も基本的な論調としては後者のジェンダー平等主義の考え方を採用しているといっていい。そのことを記事の該当箇所から確認しよう。

駐夫とは別に、妻の年収が上回り、大黒柱の座を失った自らに悶々とする男性の複雑な意識変容も取り上げた。

 一方で、私自身は仕事の世界とは異なる領域に身を置き、新たな景色も見えてきた。

 食事づくりや洗濯、子どもの習い事の送迎、さらには現地校や習い事の先生向けのクリスマスギフトの用意など主夫業に専念し、渡米前に妻が担っていた役割を追体験。家族を何よりも大切にする米国人の価値観に直接触れ、子どもの迎えで学校に出向く保護者のうち、半数近くが父親である実態も知った。

 そして、日本時代に抱えていたストレスの主体が、実は男性役割を演じようとしていたがゆえの「生きづらさ」であることを知ることとなったのだ。

“男子たるもの稼いでナンボ”の「生きづらさ」
 ;ジェンダー平等に向けた「令和モデル」に切り替えを 
小西一禎 AERA 2024年8月26日号 (強調引用者)

 この箇所の議論において主たる家計負担者の地位の相対化を小西氏は行おうとしている。つまり、家事負担の大切さを自分の体験をもって訴え、「家庭の役割について、世の中の男性が盲信している『家計負担役割が上で家事負担役割が下』という価値観が間違っている」というわけだ。その上で、男性は家計所得獲得に固執せずに家事負担役割も担っていくべきだと主張している。

 もっとも、家計負担者の地位を相対化して家計負担者と家事負担者を対等とする家庭内ヒエラルキー否定路線そのものは、それはそれで一つの立場である。先に述べたように、家計負担者と家事負担者は対等なんだとするジェンダー平等主義の考え方もあるだろうし、家計負担者と家事負担者は上下関係があるからこそ男女は家計負担と家事負担の双方を50:50に各々負担することでジェンダー平等が達成できるとするジェンダー平等主義の考え方もある。現時点ではどちらの立場が正しいとも間違っているとも決まっていない。したがって、どちらの立場を採用しようがそれ自体は問題にならない。

 しかし、フェミニズム思考から男性を悪玉に仕立て上げるために、ご都合主義的にコロコロとその立場を入れ替えることは唾棄すべき行為だ。「女性は男性からの加害を受ける被害者なんです」という結論ありきで、その結論に適合させようと両立しない考えを適宜スイッチさせていることに疑問を感じないのは、フェミニズムの毒が回り切っている。

 小西氏にフェミニズムの毒が回り切っている様を以下から確認しよう。

 男らしさやメインとしての稼ぎ手意識から自らを解放した時、男はラクになるし、不平等な両立を強いられている女もラクになる。要は、男女ともラクになるのではないだろうか。ジェンダー不平等が解消に向かい、男女共同参画社会が訪れたとき、女性だけでなく、男性にもメリットがあると強調したい。

“男子たるもの稼いでナンボ”の「生きづらさ」
 ;ジェンダー平等に向けた「令和モデル」に切り替えを 
小西一禎 AERA 2024年8月26日号 (強調引用者)

 上記の引用において強調した「強いられている女もラク」との表現は、小西氏の認識において権力構造が存在する家庭内ヒエラルキーが前提となっていることを示している。M・ウェーバーの"権力"の定義「ある人物が、他の人物の抵抗に遭っても、自己の意志を貫徹する確率」を想起すれば理解できると思うが、家庭において相手に"強いる"ことが可能な状態は家庭に権力関係が存在していることを示す。

 このとき問題になるのが小西氏の認識における権力の源泉とされているものは何かである。記事を見れば分かるが、彼の議論においては「存在として男が上で女が下」といった存在論的な男尊女卑意識による家庭内ヒエラルキーなどというものは登場しない。言い換えると「無根拠に女より男が偉い」とする男尊女卑意識が家庭内ヒエラルキーの構成原理であるとは考えていないのだ。

 では、彼が考える家庭内ヒエラルキーの構成原理はなんであるかといえば、「稼得能力=稼ぐ力」に基づく序列である。このことがよく分かるのが記事の冒頭の小西氏の見解である。

女性が家事・育児などの家族ケアを一手に引き受けることによって、男性は長時間労働を受け入れ、仕事に集中できる。その優越的な地位を会社でも家庭でも保ち続けることをよしとし、さらには手放すのを恐れている男性も多いことだろう。
 男性の優位性を表す上で、最も分かりやすいのは収入だ。政治記者時代の私は、男性が下駄を履いていることに気付かず、「男子たるもの、メインとなって稼いでナンボ」という感覚に完全に呪縛されていた。渡米して、初めて「稼得能力=稼ぐ力」を失い、茫然自失となった。

同上(強調引用者)

 上記引用において太字で強調した「男性が下駄を履いている」とのフェミニズム言説において繰り返されるフレーズは、小西氏の議論において何を意味しているか考察しよう。

 さて、フェミニズム言説において「男性が履いている下駄」のフレーズが指す内容は様々であり、ある程度明確な内容を持つフレーズの場合もあれば、具体的な内容を何も持たず「きっと男だと有利になっているに違いない」という単なる妄想を撒き散らす空虚なフレーズの場合もある。実際のところフェミニズム言説における「男性が履いている下駄」のフレーズは、大したことない自分への自己弁護の為に女性が便利に持ち出す、後者のフレーズであることが大半である。

 とはいえ、小西氏の議論における「男性が下駄を履いている」のフレーズは、少数派である明確な内容を持つ前者のフレーズである。実に珍しい。閑話休題、小西氏の議論における「男性が下駄を履いている」と言われるときの下駄が何かを考えよう。

 結論を先に言えば、妻である女性が家事・育児などの家族ケアを一手に引き受けることによって、夫である男性は長時間労働が可能になり仕事に集中できることで稼得能力がブーストされる下駄である。

 さて、現時点の日本社会において「男性は家事負担をせず家計負担をメインに担い、女性は家事負担をメインに担う」という家庭が多い。この状況は未婚者においては男女差が生じなくとも既婚者に関しては男女差が生じることとなる。すなわち、以下のような構造を持つという訳だ。

【男性】既婚男性:ブースト有り  未婚男性:ブースト無し
【女性】既婚女性:ブースト無し  未婚女性:ブースト無し

 つまり、既婚男性層だけが妻の家事サポートという形でのブーストされた稼得能力を持つのに対して、その他の層は素の状態の稼得能力しか持たない。

 さて、この既婚男性の妻の家事サポートという形でのブーストされた稼得能力を、「男性が履いている下駄」という非難のニュアンスのある言葉で認識する立場は、稼得能力を判断基準として家庭内ヒエラルキーが決定されるとする立場である。「男性が履いている下駄」という非難のニュアンスのある言葉は、「男性が稼得能力で偉そうにしているのは、女性が家事でサポートしてやっている御蔭じゃないか!」という意味合いを持つ。別の面から言えば、稼得能力の帰属が夫と妻で別々であることを前提に、その稼得能力の高低が家庭内ヒエラルキーに繋がっているが故に、夫の素の稼得能力で家庭内ヒエラルキーが決定されていない状況を不当であるとして非難する言葉なのだ。

 もしも、家計負担者と家事負担者は対等なんだとするジェンダー平等主義の考え方に基づくならば、家事サポートという形でのブーストされた家計負担者の稼得能力は、夫婦というチームの稼得能力であり、家計負担者個人の稼得能力と認識されない。夫婦は役割分担をしているのだから、所得獲得の成果を一方の主体の能力に帰属させる発想にならない。主たる家計負担者の地位の相対化は稼得能力の相対化でもある。換言すれば稼得能力を絶対視しない価値観である。

 しかし、「男性が履いている下駄」という非難は、稼得能力を絶対視した価値観の上でその評価がアンフェアであることを非難している。ブーストされた稼得能力によって家庭内ヒエラルキーが決定されている状態が不健全であると批判する言葉であるのだ。そして、そんな不公正な手段で強化された権力で女性に家事サポートを強いているアンフェアさを糾弾しているのである。

 このトピックでの小西氏の議論の奇妙さを譬え話で説明しよう。

 ある人Aが「ペーパーテストの結果なんかで人物を判断しちゃダメだ。ペーパーテストに囚われることなんか間違っている!」と主張していたとしよう。聴衆は「まぁ、ペーパーテストの出来で人間を判断することは、なんか違うかもなぁ」と思うだろう。しかし、Aの続く主張で「人物を判断するペーパーテストではズルが行われている!ペーパーテストはキッチリ行わなければいけない!」と言い出したら、聴衆は「おまえ、さっきペーパーテストはどうでもいいと言っていなかったか?」とポカンとするだろう。もちろん、Aの続く主張を単独で見るならば間違ったことを言っているわけではない。しかし、「ペーパーテストに囚われるな!」という主張の後で為されると「Aの前後の主張の整合性はどうなってんの?」という話になるのだ。

 稼得能力を相対化する価値観に立脚しようが、稼得能力を絶対化する価値観に立脚しようが、現状の男性の有り様に対して批判を加えることは可能である。しかし、稼得能力を相対化する価値観と稼得能力を絶対化する価値観は両立できない

 フェミニズムの枠組みから男性を悪者化して非難するとき、どんな価値観に基づいて非難しているのか小西氏は自覚していない。そして複数の価値観をご都合主義的に使い分けていることにも、価値観相互の矛盾にも気づいていない。たった一つの記事のなかでさえフェミニズムに汚染されると整合性をもった思考が不可能になるようだ(註2)。まったくもって、フェミニズムは男女問わず人間を白痴化して「男性加害者-女性被害者」の枠組み以外で物事を認識できなくしている。


■まとめ

 当該記事の基本的論調は「男性は大黒柱にならなければいけない」という旧弊のジェンダー規範に男性が囚われていることを批判している。つまり、稼得能力を相対化する価値観から男性が批判されている。この価値観に基づくジェンダー問題への批判自体はよく見られるものであるし、間違った立場というわけでもない。

 しかし、当該記事に目を通すと「なぜ男性の非だけ鳴らすのか?」という強烈な疑問が湧いてくる。もっと言えば、その小西氏の態度自体がジェンダー差別的態度と言えるのではないかと思われる。また、基本的には稼得能力を相対化する価値観から男性批判を繰り広げるものの、しばしば稼得能力を絶対化する価値観から男性批判を小西氏は行う。この二つの価値観は両立不可能な関係にある価値観であり、二つの価値観を適宜使い分けて男性批判を繰り広げることは、男性批判をするためのご都合主義であるとして非難されるべきものだ。

 当該記事についてのこれらの疑問点を本論では三つに分けて論じた。

  1. 妻のモラハラ発言をあくまでも男性の問題として認識している問題

  2. 男女を問わない「ストレスの負の連鎖」で糾弾するのは男性に限定している問題

  3. 男性批判の為に稼得能力を相対化する価値観と絶対化する価値観を使い分けるご都合主義の問題

 本論で論じたことをもう一度簡潔に振り返っておこう。

 まず、「1.妻のモラハラ発言をあくまでも男性の問題として認識している問題」を振り返ろう。

 当該記事では、大黒柱の役割から降りた男性(夫)に代わって大黒柱の役割を引き受けた女性(妻)の話が紹介されている。その話の中で、女性は男性に対して大黒柱の役割を降りていることで罵倒している。もちろん、ジェンダーフリーの価値観・稼得能力を相対化する価値観だけでなく、普通にDV(ドメスティックバイオレンス)の観点から真っ当に判断すれば、罵倒した女性に問題がある。対女性モラハラ発言なら放置されないで大問題となるにも関わらず、対男性モラハラ発言だと放置されている。明らかなジェンダー差別である。しかし、当該記事では女性のモラハラ発言をスルーして男性が大黒柱の役割を意識面で十分に降り切れていないことを問題視するのだ。これはどう考えても異常な認識である。また、この事例からは男性側の意識改革だけでなく女性側の意識改革も必要であることを窺わせる。男性が意識改革しても女性がそれを挫くのであればジェンダー平等社会は進展しない。それにも関わらず、あくまでも男性自身の意識の問題とされ、周囲や社会の問題は等閑視されるのだ。「あり得ないだろう!」という感想しか抱けない。

 次に、「2.男女を問わない『ストレスの負の連鎖』で糾弾するのは男性に限定している問題」を振り返ろう。

 社会的規範への束縛と忠誠要求や長時間労働等の現代日本の労働慣行は、主たる家計負担者の生きづらさやストレスを発生させている。そして、主たる家計負担者はそのストレスを家事負担者にぶつけ、それが家事負担者の生きづらさやストレスを生じさせている。ストレスを抱えた人間が他者にストレスをぶつけ、ストレスをぶつけられた他者はそのことでストレスを抱えるという構造自体はありふれた構造なので、小西氏の主張も理解できることだ。しかし、彼の主張で理解できないのは、主たる家計負担者が男性のときは「家事負担者となる女性の生きづらさやストレスの原因は男性にある」と男性批判を繰り広げる一方で、主たる家計負担者が女性のときは「家事負担者となる男性の生きづらさやストレスの原因は男性の意識改革不足にある」とする点にある。明らかに認識がヘンなのだ。主たる家計負担者の女性が家事負担者の男性にストレスをぶつけていても、家事負担者の男性の生きづらさ・ストレスに主たる家計負担者の女性が関与していることを無視する。まったくもって異常である。

 最後に、「3.男性批判の為に稼得能力を相対化する価値観と絶対化する価値観を使い分けるご都合主義の問題」を振り返ろう

 「男性は従来は女性が担ってきた『食事づくりや洗濯、子どもの習い事の送迎、さらには現地校や習い事の先生向けのクリスマスギフトの用意など』の家事負担者の役割の価値を、主たる家計負担者の役割の価値と同等に見るべきだ」といった形で、稼得能力を相対化する価値観でもって男性批判を繰り広げる。そして稼得能力の高低に拘る男性に対して意識改革を迫る。この考え方からの批判自体は理解できる話である。しかし、一方で小西氏は同時に稼得能力を絶対化する価値観からの男性批判も繰り広げるのだ。つまり、女性に家事サポートさせることで男性の稼得能力をブーストさせるズルをしていると男性を批判するのである。家庭内ヒエラルキーは稼得能力の高低で決まるのだから男性は卑怯であるというわけだ。現状がそんな卑怯な状態にあるから、そのことを自覚して男性は反省しなければならないと男性批判を繰り広げる。「男性が稼得能力の高低に拘ることはオカシイ」と言った舌の根の乾かぬ内に「男性が稼得能力でズルしてるぞ!」と稼得能力の高低を問題にしている。稼得能力を相対化する価値観から男性批判をしてもいいし、価値観と絶対化する価値観から男性批判をしてもいい。しかし、この二つの価値観は両立不可能な価値観であるから、双方を同時に用いて男性批判を繰り広げるのは「男性批判を目的としたご都合主義」に過ぎない。もっといえば、単なるセクシズム言説である。

 フェミニズムに毒されているとお馴染みの男性悪玉論の言説だから、小西氏の主張の滅茶苦茶さ加減に気づかないかもしれない。しかし、フェミニズム思考から離れて彼の主張を見てみると、「ジェンダー平等を目指すぞ!」という掛け声を掛けつつジェンダー差別をしているという支離滅裂な主張となっている。

 乱痴気騒ぎを繰り広げるフェミニストに引きずられて愚かしい叫び声をあげる人間が多数いる。しかし、ブルーピルを飲んでWOKEしてウェイウェイと白痴となってバカ騒ぎを続けるのか、レッドピルを飲んでフェミニズムとオサラバするのか、今後の人間の賢明さに期待したいところある。



註1 ジェンダー問題に対する議論における「女性のジェンダー問題は社会の責任、男性のジェンダー問題は自己の責任」という論調のジェンダー差別的な非対称性は幾度もnote記事で取り上げている。例えば以下がそうである。

註2 信じがたい程の整合性の無さは市井のフェミニストの特徴である。例えば、以下の記事で取り上げたフェミニストなどはその典型である。


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