専門家を装うフェミニスト:専門家としてデータを使うならヒューリスティクスを使ってはいけない
以前のnote記事『標本誤差も知らずにアンケ―トの結果を用いるフェミニスト』でも批判した、様々なアンケートの結果をつまみ食いしながら適当な事を書き散らしている以下の記事の別の箇所に対して、前回とは異なる視点で批判する。
前回の記事でも取り上げたが、当該記事の結論部において以下のようなことを当該記事のライターの西田氏は述べている。
ここで注目すべきなのは「解釈できるデータも少なくありません」という表現である。如何にも「専門知識を背景にして主張していますよ!」という雰囲気が演出されている。前回の記事でも述べたが、この言い回しは統計学を修めた人間が統計データを用いて何かを主張するときによく用いる言い回しである。つまり、彼女はアンケートという社会調査やら統計学の権威を利用して自己の主張のそれっぽさを補強しようとしているのだ。
しかし、記事から窺うところ、彼女には統計学や社会調査技法に関する知識があるとは到底言えない。また、自身がどのような文脈のもと主張しているのかも理解していない。
このことは記事の至る所で見出すことができるのだが、当note記事で取り上げて批判するのは、株式会社アスマーク「コンビニエンスストアの利用意識に関するアンケート調査」の結果を用いて彼女が主張している以下の箇所である。
以上からわかるように、彼女は「人生において食事の楽しみって大事なのにコンビニ飯で済ましてれば人生が楽しくないなんて当然じゃない。おまけに身体にだって悪いし」という印象論に基づいて、「コンビニ利用が多い⇒コンビニ飯が多い⇒生活の満足度が低い」との暗黙の前提をおいて、「コンビニエンスストアの利用意識に関するアンケート調査の結果」からコンビニ利用の男女差を明らかにすることで「おひとりさまの生活の満足度でみて男性は低くなり、女性は高くなる」と主張しようとしているのだ。
この箇所において、主張の根拠となるデータを読み解くにあたってヒューリスティクスを彼女は用いている。つまり「コンビニ飯食ってる奴は生活の満足度が低い」というステレオタイプによる認識から、上記のコンビニ利用に関するアンケート結果を引っ張り出してきて「男女の『結婚しない』という生き方の向き不向き」を判断しているのだ。このとき、記事には寄与度は言うに及ばず相関係数もなにも登場しない。
こんな話は個人の着想の段階の話であって、他者に結論としてデータを示しながら披露する段階の話ではないのだ。
この辺りの事情、すなわち、なぜ彼女が「個人の着想段階の話」なのに他者に結論として披露してしまったのか、そして、なぜそんな段階の話なのに、一部のオーディエンス(=読者)には「結論として披露できる段階の話」として受け止められてしまうのかに関して考察して、そのことを通して記事および西田氏を批判していきたい。
■なぜ記事における思考を正しいと感じてしまうのか
西田氏の暗黙の前提(の一部)である「コンビニ飯が多い⇒生活の満足度が低い」という因果関係は自明ではない。つまり、そう簡単にそのように前提として置くことはできないものだ。この彼女の暗黙の前提の構図を分かり易く示すと
原因:コンビニ飯が多い
結果:生活の満足度が低い
というものだ。統計学を叩きこまれた人間だと「あ、コレはアカンやつ」と直ぐに分かるのだが、統計学に馴染みがなければ、彼女がおいた暗黙の前提の構図をみて「それはそうなんじゃない?」との印象を受けた人が居るかもしれない。
ではなぜ、統計学に馴染みのない人に「それはそうなんじゃない?」との印象が生じるのか考えてみたい。
結論を先にいえば、この統計学に馴染みのない人が持つ「それはそうなんじゃない?」との印象が生じているのは、彼女が記事において用いているヒューリスティクスと呼ばれる枠組みが、普段何気なく用いている我々の簡便な思考法と同じであることによるのだ。つまり、同じものを用いているから正しいと感じてしまうのだ。
ではなぜ、普段の日常生活のなかで何気なく用いているヒューリスティクスは、記事の主張の論証過程のなかで用いてはいけないのだろうか。このことをヒューリスティクスとはどのようなものなのか詳細に確認していく中で明らかにしたい。
■ステレオタイプを用いるヒューリスティクスという普段の思考
ヒューリスティクスによる判断とは、いわゆる経験則や先入観による判断、すなわち「あ、このパターンは前にも見たことがあるぞ。だから今回もそうだろう」「コレはよくみかけるケースだからコレも同じなんだろう」といったパターン認識で判断することである。もう少しハッキリと構造が分かるように説明しよう。
ヒューリスティクスとは、直接観察できた部分に関して「ステレオタイプ=典型的パターン」の対応する部分と照合して合致した場合に、その事物を「ステレオタイプ=典型的パターン」の事物と見做す思考である。そして対象の観察できていない「知りたい部分」に関しても「ステレオタイプ=典型的パターン」の対応する部分と同じだろうと判断するのである。
今回の批判対象にした記事の箇所の判断で言えば、以下のようなステレオタイプを用いて「コンビニ利用は男が多い。だからコンビニ飯を食べているのは男性が多くて、それゆえ男性のおひとりさまの満足度が低い」と西田氏は判断しているのである。
上記のステレオタイプにおいて生活の満足度と食生活の豊かさがセットになって分かち難く結びついている。そして、そのようなステレオタイプから「食生活の豊かさを観察することで生活の満足度を直ちに推測することができる」とヒューリスティクスを用いていた彼女は判断してしまったのだ。
■ヒューリスティクスとバイアス
「ステレオタイプ」という単語が登場したことからも窺えるように、(実に皮肉なことに)ヒューリスティクスはジェンダー論において非難の槍玉に挙がる「ステレオタイプによる推測」という思考法である。したがって、フェミニスト達は、ヒューリスティクスによる判断を「その判断はジェンダーバイアスだ!」と批判することが多い。また、先に説明したヒューリスティクスの構造から容易に見て取れるように、ヒューリスティクスには必然的にバイアスが混じり易いという欠点がある。
実際に別の事例で具体的にヒューリスティクスによる判断を見て、確かにバイアスが混じり易い判断であることを確認してみよう。
例えば、街中でヘルメットをかぶってニッカポッカを穿いているオジサンに出会ったときに「あのオジサンが仕事上がりにスターバックスでフラペチーノ飲みながら談笑するとかあると思う?」と友人から尋ねられたら「いやぁ、あのオジサンがフラペチーノ頼むとか無いでしょ」と答えるだろう。また逆に、オフィスカジュアルを颯爽と着こなしているビジネスパーソンの若い女性を見かけたときに同様に「あの女性が仕事上がりに立ち飲み屋でスルメを齧りながらビールを呑むとかすると思う?」と尋ねられたら「オシャレなバーとかビストロでビールは飲むことはあっても立ち飲み屋では飲まないだろ」と答えるだろう。
このとき問答をした人間が直接観察したのは「年恰好と性別と服装」である。当然ながらアフターファイブの様子など観察していない。さらには観察した「年恰好と性別と服装」と観察していない「アフターファイブの過ごし方」との間には(ほぼ)因果関係など無いと言っていいだろう。そうであるにも拘らず、「ニッカポッカを穿いたオジサンは仕事上がりにスターバックスでフラペチーノ片手に談笑しない」「オシャレな若い女性は立ち飲み屋でスルメを齧りながらビールは飲まない」と日常的に我々は判断してしまうのだ。
ヒューリスティクスがステレオタイプを用いて判断していることから、上記のようなことが起こる。観察された要素「年齢・性別・服装」と、様々な要素から構成されるステレオタイプの、今回の例でいえば(年齢,性別,服装,職業,趣味嗜好,話し方,性格,能力,学歴,・・・)の組み合わせから成る典型的パターン――様々な要素のセット――の、太字で示した要素を照合して適合するステレオタイプを見つけ出し、観察した人物はステレオタイプ通りの人物と判断する。そして、そのステレオタイプ(=要素のセット)から、「観察していない要素」もステレオタイプ通りに観察した人物は保有していると判断するのだ。
つまり、観察した年恰好・性別・服装と観察していないアフターファイブの様子とはステレオタイプを通じて主観的に結びついている。つまり、観察した要素である年恰好・性別・服装と観察していない要素であるアフターファイブの様子との間には、因果関係等の必然的な結びつきが存在せずとも、主観的に結びつくのだ。この構造がバイアスを生む素地になっている。
このヒューリスティクスの思考枠組みを図式化すると以下のようになる。
第一段階:観察した要素とステレオタイプの対応する要素との照合
第二段階:照合して合っていれば観察対象がステレオタイプ通りと認識
第三段階:観察していない要素についてもステレオタイプ通りと判断
このようにヒューリスティクスは「観察していない要素」に対してステレオタイプ通りと判断する思考である。このとき「観察した要素」と「観察していない要素」を媒介しているのが「ステレオタイプ、あるいは典型的パターンの概念」だけである場合がある(ここの構造の詳細は後述)。この「ステレオタイプ、あるいは典型的パターンの概念」のみを通じた結びつきが(ステレオタイプ等による)バイアスと呼ばれるものになる。そして、それが性別に関わるものである場合、特にジェンダーバイアスと呼ばれているのだ。
とはいえ以上の説明だけであると、ヒューリスティクスがバイアス塗れの碌でもない思考のような印象が生じてしまう。しかし、我々の普段の思考がそんなどうしようもない思考で間違った判断ばかりを出力するようであれば、当の昔にそんな思考方式は捨て去られているはずである。
ではなぜ、捨て去られずに普段の生活でヒューリスティクスを使って思考しているのか、もう少し詳しく考察していこう(註1)。
■ヒューリスティクスによる判断と科学的な判断
さて、我々は様々なステレオタイプの観念を持っている。典型的なオジサン、典型的な若い女性、典型的なとび職、典型的なビジネスパーソン、典型的な銀行員、典型的なセールスマン、典型的な教師、典型的な警察官、典型的なヤクザ、典型的な犯罪者、典型的なアルコール中毒者、典型的な高校生、典型的な小学生、典型的な父親、典型的な母親、・・・といったステレオタイプの観念を保有している。また、「ステレオタイプ」と呼んだ場合は主に人物像を意味するが、ヒューリスティクスの思考におけるパターン認識は最初に「経験則や先入観による判断」と断った通りに人物像に限定したものではない。典型的なフランス料理、典型的な宴会、典型的な日本の会社、典型的な修学旅行、典型的なデート、典型的な田舎の風景、典型的な風邪、典型的な交通事故、・・・といった典型的パターンもヒューリスティクスの思考において用いられる。
上のパラグラフで煩い程「典型的な○○」と書き連ねたわけだが、この列挙によって「どんな物事に関しても典型というものはあるんじゃないか?」との気付いた人もいると思う。そうなると「いったい典型とは何なんだ?」という疑問が湧くだろう。その疑問に答えるならば、「典型」とは我々が保有している様々な「観念」において、その観念を構成する様々な要素とより多く合致しているものが典型なのだ。
そして重要なことなのだが、「典型」を用いて物事を判断するヒューリスティクスと、「観念」でもって世界を認識する我々の普遍的な認識の仕組みとは本質的に差異がないのだ。
このことを具体的に考えてみよう。
「甘酸っぱい匂いのする丸くて赤い物体」が目の前にあったときに「これはリンゴだ」と判断する場合、頭の中の「リンゴの観念」に照らし合わせてリンゴと判断している。つまり、目の前の赤くて丸い物体を観察して分かる様々な要素と、リンゴの観念を構成する様々な要素「大きさ、形、におい、色、手触り、味、・・・」の対応する要素の合致を確認して、「これはリンゴだ」と判断している。さらには「もし、包丁で半分に切ったら芯に種が入っているだろう」とも認識している。
これを先の図式化に倣えば以下のようになる。
第一段階:観察した要素とリンゴの観念を構成する対応した要素との照合
第二段階:照合して合致していれば観察対象はリンゴと認識
第三段階:未観察であるが「コレはリンゴだから芯に種がある」と認識
さて、この認識構造は例に挙げたような日常生活の場面にのみ現れるものではない。およそ外界を人間が認識する際に普遍的に現れる認識構造(=ア・ポステリオリな事物に対する認識の構造)である。当然ながら科学的認識においてもみられるものだ。
例えば化学分野の概念である「アルカリ水溶液」について見てみよう。
ある液体Xについて、リトマス試験紙を青くし、手に付くとヌルヌルして、酸と混ぜると中和するといった観察された要素があったとしよう。このとき、科学の一分野である化学の「アルカリ水溶液」の観念を構成する要素「リトマス紙を青くする,皮膚の脂肪酸を鹸化する,酸との中和反応で塩基の性質が失われる,・・・」と対応する部分の合致によって「この液体Xはアルカリ水溶液である」と認識される。このとき、たとえ観察していなくても、この液体Xはアルカリ水溶液であるから「・・・,水酸イオンが含まれている,フェノールフタレイン溶液を赤くする,・・・」といったことも同時に認識される。つまり、科学の一分野である化学の「アルカリ水溶液」の認識に関しても、先のリンゴの例と同じ図式が当てはまるのである。
これを一般化して言えば以下のようになる。
第一段階:観察した要素と観念を構成する対応した要素との照合
第二段階:照合して合致していれば観察対象は観念のものと認識
第三段階:観察対象は観察していない事柄についても観念を構成する要素と合致すると認識
さてこれを先述のヒューリスティクスの図式と比較してみよう。
上記をみれば分かるように同じ構造をしているのだ。したがって、この科学的認識を否定するのでもない限り、この認識の構造自体で「その構造は間違っている!」とは主張できないのだ。
では、科学的認識とヒューリスティクスとはなにが違うために、一方は厳密な認識で、他方はいい加減な認識とされているのだろうか。
その違いは、観念あるいはステレオタイプ(あるいは典型的パターン)を構成する各要素の結びつきの違い、その結びつきが科学的手続き等で確認されているかの違い、その結びつきの強度の違いによる扱いの違いにある。つまり、なかば譬え話めいて通俗的に表現するならば「正体が判明しており、品質保証がなされ、取扱説明書が付いているのか否か」の違いなのである。
したがって、科学的認識に基づく「アルカリ水溶液である液体Xとフェノールフタレイン溶液を混ぜれば赤くする」との推測は、なぜそうなるのかが化学でハッキリ確かめられているために、液体Xがフェノールフタレイン溶液を赤くするのは確実であると扱ってもいいのだ。
一方で、ヒューリスティクスによる「ニッカポッカを穿いたオジサンはスターバックスでフラペチーノ片手に談笑しない」との推測は、その推測の根拠となる「ニッカポッカを穿いたオジサン」と「スターバックスでフラペチーノを頼まないこと」との間の関係が、その関係性について確たる手段で確かめられていないアヤフヤな関係である上に、それがどの程度の精度で言える関係なのかも判明しておらず、更にはそれをどのように扱ってもいいかもキチンと決まっていないゆえに、いい加減な認識あるいは推測と扱われるのだ。
■ヒューリスティクスが許容される文脈と許容されない文脈
ここで慌てて注意を促しておくが、我々が日常生活を送る上で必ずしも「根拠との関係性が明らかであり、かつ、精度が高く、また、精度の水準がハッキリした推測」しか許容しないわけではない。もちろん、日常生活上の推測も精度が高いに越したことはないし、また高い精度が要求される場合もある。しかし、そうでない場合も数多く存在している。例えば以下の日常生活のシーンを想起すればよい。
空を見上げて「雲一つないから、今日のお昼は暑くなりそうだ」と思ったが昼になると風が吹いて雲も出てきて大して暑くなかった
「明日は花火大会があるから、仕事帰りに渋滞にハマるかもなぁ」との予想通りに花火大会の日は渋滞にハマった
旅先で「出前用のカブがある町中華は美味しい事多いから、昼飯はあの店にしよう」と判断したのは正解で天津飯がとても美味しかった
「普通はジュースにしないきゅうり味の『ペプシキューカンバー味』ほどはマズくないはず。紫蘇シロップのジュースとか好きだったし。いざ『ペプシしそ味』にチャレンジ!」とペプシの変わり種コーラを飲んだが予想が覆された。
列挙した様々なシーンの具体例から、各シーンにおける文脈によって判断のもとになる推測の確かさについての真剣さが左右されることが明確になったと思う。「花火大会で渋滞にハマる」と考えたときの文脈と「ペプシしそ味はペプシキューカンバー味ほどはマズくない」と考えたときの文脈を比べれば、前者はそれなりに真剣でも後者は真剣さなど殆ど無い。
つまり、ヒューリスティクスによる「関係性の不明瞭さ」「不確実性(=精度の低さ・精度水準の不明確さ)」をどの程度許容するかに関して、そのときどきの状況の文脈によって変わってくるのだ。
言い換えれば、かなりいい加減な判断が許容される場合もあればキチンとした判断しか許容されない場合もある。更に言えば、ヒューリスティクスによる判断が許容されない文脈も存在しているのだ。
判断に関する確実性の水準の許容度は文脈によって変化する。ヒューリスティクスによる判断で十分な状況もあれば、ヒューリスティクスによる判断が不適切となる状況もある。
つまり、西田氏の記事におけるヒューリスティクスを用いた以下の判断は、当該記事の「統計データを用いて解釈する」という統計学を用いて何らかの主張をするという記事の文脈において不適切であるのだ。
以上のことから判明するように、西田氏は自分がどのような文脈で主張を行っているのか理解していないのだ。
註
註1 別の視点でのヒューリスティクスの利点を挙げよう。ヒューリスティクスには認知資源の節約という大きな利点がある。判断に費やす時間、注意深く観察する気力、粘り強く思考する精神力といった認知資源は有限であって、我々が日々直面する判断する全てのシーンにおいてそれらの認知資源を潤沢に費やすに足る量があるわけではない。言ってみれば、認知資源は使うべきところではシッカリと投入する必要があるが、普段はケチケチして遣り繰りしなければならないものなのだ。それゆえ、認知資源を大して使わないにも関わらず、それなりに有効な判断を可能するヒューリスティクスは重宝されているのだ。