弱者男性問題をミソジニー問題と認識する認知の歪んだフェミニスト
弱者男性問題についてだが、その問題圏における巨大な問題として「問題に対する間違った認識の問題」がある。フェミニズムが当たり前に語られるようになる前の女性問題と同様である。言い換えると、問題がマトモに取り合われず他方の性別側の勝手な決めつけで問題が認識されるという問題である。
このことが分かる以下のyahoo!ニュースに転載された記事とその記事に付けられたヤフコメからその問題を見ていこう。ただし、取り上げるトイアンナ氏の記事自体は非常にマトモである。一方で、当該記事にコメントしたフェミニストの姿勢が、典型的ともいえる問題を孕んだ姿勢なのだ。このことを今回のnote記事の主題に取り上げていこうと思う。
【元の記事】
【yahoo!ニュースに転載された記事】掲載期間終了
■弱者男性問題とフェミニストの認識のおかしさ
弱者男性問題は、大まかには以下のように区別できる。
純然たる福祉対象であるべき、性別が男性である人間の問題
福祉対象ではないが客観的水準から判断して困窮している、性別が男性である人間の問題
中位男性よりも下位の男性が抱える問題
人生論的観点から苦悩を抱える男性の問題
非モテなどの恋愛や性愛において劣位にある男性が抱える問題
ミソジニストやインセルといった邪悪な男性の問題
ただし、基本的にはどの問題も「男性」の箇所を「女性」に変えたとしても、その立ち位置の人間は問題を抱えている。実際に男性から女性に置き換えて対応させてみよう。
1’.純然たる福祉対象であるべき、性別が女性である人間の問題
2’.福祉対象ではないが客観的水準から判断して困窮している、性別が女性である人間の問題
3’.中位女性よりも下位の女性が抱える問題
4’.人生論的観点から苦悩を抱える女性の問題
5’.非モテなどの恋愛や性愛において劣位にある女性が抱える問題
6’.ミサンドリストやツイフェミといった邪悪な女性の問題
このように同様の立場の男女に対して問題を考えることが可能である。ただし、これらの問題に関して男女入れ替えると他方の性別の場合には無かった問題が出てくる。
例えば「純然たる福祉対象であるべき、性別が女性である人間の問題」と「純然たる福祉対象であるべき、性別が男性である人間の問題」はその問題の性質が異なる問題も発生する。性別による相違点の具体例をそれぞれ一つを示せば、福祉対象である人間について性別が女性であるときの特有の問題として「(男性と比較して)性的被害を受けやすいこと」等があり、また性別が男性であるときの特有の問題として、最近取り上げられることも多い、御田寺圭氏の「可哀想ランキング」の概念とも深くかかわる問題がある。つまり、同じ立場であっても性別が異なれば性質の違う問題に直面している。
この構造を病気に譬えて説明するならば、生殖器官に関する癌は男女共に存在しているが、男女ではそれぞれ異なるといった有り方と同様である。すなわち、男性は前立腺癌に罹患するが女性は前立腺がないので罹患せず、女性は子宮癌に罹患するが男性は子宮がないので罹患しないといった状況に似ている(もちろん、この時の男性・女性は生物学的雌雄である)。
しかし、この同じ立場であっても性別が異なれば性質の違う問題に直面していることに関して、少なからぬフェミニストが理解していない。
男性にはない女性特有の問題があることは当然視する一方で、女性にはない男性特有の問題があることについて、少なからぬフェミニストは認識しないどころか眼前に提示されたとしても無視する。そして「女性だけが男性にはない問題を抱えるが、男性は女性には無い問題は抱えない」と思い込む。いや、この表現は正確ではない。「女性は女性の責任とするのは不当な問題を抱えているが、男性は男性の責任とするのが不当な問題を抱えない」とフェミニストは考えるのだ。つまり、フェミニストは「男性特有の問題があったとしても自業自得の問題である(=自業自得ではない女性特有の問題とは異なる)」という認識でいるのだ。
実に笑ってしまう話であるのだが、「男性は守られるべき存在ではないが女性は守られるべき存在なのだ」というフェミニストが散々に非難する、慈悲的女性差別そのままの認識に基づいて、フェミニストは事態を認識しようとするのである。すなわち、フェミニスト達は常日頃から非難しているセクシスト(=性差別者)そのものに成り下がって言論活動を繰り広げるという、馬鹿々々しいほどアイロニカルな事態が、弱者男性論において出来しているのである。
■トイアンナ氏の記事の問題意識
トイアンナ氏の当該記事における問題意識は「男性という性別だと、当人の内面・周囲の対応・社会の体制において、弱者が弱者として扱われていない」という社会の状態に向けられている。すなわち、基本的には前節の箇条書きにおける1・2の問題を記事において取り上げており、3・4・5・6の問題は当該記事においては問題意識の範囲外である。そのことを記事の文章にしたがって確認しよう。
また、これらの弱者男性の置かれた状況が反映された統計的事実をトイアンナ氏は示している。記事の該当箇所についても引用しよう。
この箇所に関して注意すべきところは「自殺者のうち、67%が男性」というジェンダーギャップである。自殺率が男女で同比率ではないという統計的事実から日本社会には男性特有の不利な事情があることが窺える。因みに引用文中の数値からジェンダーギャップ指数に倣ってスコアを出すと0.49(=男性自殺者1人に対する女性自殺者の人数)である。また逆に女性自殺者1人に対する男性自殺者の数に直せば2.03人である。ザックリ言って男性自殺者の二人に一人はもし彼が女性であれば自殺していなかったであろうとマクロ的には言い得る状況にある(註1)。
トイアンナ氏が取り上げる弱者男性が置かれた状況とは、統計的事実に現れている、性別が女性であれば自殺していないであろう弱者の男性が置かれた状況なのである。そして、性別が女性であれば得られていたであろう社会の保護が、なぜ性別が男性であると得られていないのかという当然の疑問に対して具体的なケースから明らかにしようとしている。すなわち、社会の保護が性別が男性である弱者に届いていない要因として「当人の内面化されたジェンダー規範・性別で異なる周囲の対応・性別で異なる社会の体制」という3つの要因をトイアンナ氏は具体的に指摘するのである。
それ故にその要因を具体的に見るにあたって事例に登場する人物には当該人物の性別がたとえ女性であっても殆ど変わらないような弱者が選ばれている。
つまり、フェミニストが"弱者男性"を語るときに持ち出す、非モテやインセルとは関係がない、本質として福祉対象である純然たる弱者のケースが具体例として取り上げられているのだ。そのような純然たる福祉対象の人物が直面しているジェンダー的差異をトイアンナ氏は記事で取り上げ、そのジェンダー的差異によって社会の保護が得られていないことを記事で明らかにしている。
ちなみに当note記事において、くどいほどトイアンナ氏が記事で取り上げている人物が非モテやインセルとは関係がない本質として福祉対象である純然たる弱者の男性であることを確認するのは、フェミニストであろう人物がケイト・マンのミソジニー理論だけを用いて記事で取り上げられた問題をあくまでもミソジニー問題に矮小化しようとするからである(※ケイト・マンのミソジニー理論は2023年現在の日本においてはフェミニズム思想にかなりの関心が無ければ知らないような理論である。さらに社会的弱者の男性の苦境を取り上げた記事を普通に読めば、その程度は色々あるが"被害者としての男性"という解釈の方向は変わらない。それにも関わらず普通の解釈の方向を逆転させて男性を悪者化するのはフェミニスト特有の解釈である)。なんでもかんでも弱者男性問題をミソジニー問題を結びつけるのは、今回のトイアンナ氏の記事をミソジニー問題として解釈したコメントだけではない。以前、リーン・イン・フェミニズムについて触れたnote記事で批判したフェミニストも同様であった(註2)。つまり、「弱者男性問題=ミソジニー問題」と短絡的に認識するのは、かなり広範に観察されるフェミニストの宿痾である。
さて、トイアンナ氏の記事に付けられた、弱者男性問題をミソジニー問題に矮小化しようとするコメントは以下である。
トイアンナ氏の記事のどこをどう読めばこのように解釈できるのか理解に苦しむが、本当にこの手のフェミニストは認知が狂っていて、何をみても自分に都合のよい物語しか目に映らないのだろう。相手がどんな主張をしていても、相手が主張していない藁人形(=ストローマン)を相手の主張と考えるのだ。まったく「女性=被害者,男性=加害者」の枠組みでしかフェミニストは物事を認識できないのである。
何度も繰り返すが、上記のようなトチ狂った認識を防止するために、トイアンナ氏は記事の事例として、以下のような純然たる福祉対象である性別が男性の社会的弱者の事例を取り上げている。
さて、引用箇所から容易に読み取れるように、取り上げられている人物は性別に関係なく社会的弱者といえる。この人物がたとえ男性ではなく女性であっても変わらず社会的弱者と見做される人物である。また、この箇所から窺えるところ、社会的弱者になった経緯も男女共通の経緯である。具体的に示せば、
貧困家庭出身
問題ある両親(母親は精神的に不安定、父親は単身赴任で不在のち離婚)
精神的問題を抱えた母親だけと接する家庭環境に起因する劣悪な生育状況
実質的には低い教育水準(但し、学歴は大卒)
双極性障害を発症
精神障害が原因で無職
生活保護受給者
といった劣悪な状況にある人物である。この人物を弱者たらしめている、上記に挙げたバッドステータスのどれを取り出しても男性特有とは言えない。したがって女性であってもこのような劣悪な状況にあれば社会的弱者になることは明白だ。
このような人物の境遇を見ていくことで、フェミニストが"弱者男性"を語るときに持ち出す非モテやインセルとは関係がなく、「男性という性別だと、当人の内面・周囲の対応・社会の体制において、弱者が弱者として扱われていない」という社会の状態が、日本社会の状態であることをトイアンナ氏は記事で明らかにしている。
■弱者男性自身の内面化されたジェンダー規範により生じる問題
記事の具体的事例に登場する弱者男性の「みさこ」氏も含めて、男女に関係のない社会的弱者であるにもかかわらず、男性の社会的弱者は内面化されたジェンダー規範によって(女性よりも)”救済されない社会的弱者”となっていく。このことを記事から確認しよう。
上記の引用から窺えるように、男性ジェンダー規範によって自分が社会的弱者と認めることを忌避するために福祉に繋がることができず、"救済されない社会的弱者"となってしまうという問題が、弱者男性問題の一側面である。この問題の一側面について一般化していえば、理想と乖離している現実を直視しないことで深刻化する問題と言えよう。この側面について少なくないフェミニスト達はなぜか男性特有の問題と認識しがちであるが、性別に関わらず抱える問題である。
例えば、昨今おおいに問題となっている悪質ホスト問題も、言ってみればホストとの関係性について被害女性が理想と現実の乖離を直視していないことで深刻化した問題と言える。あるいは、健康被害が明らかで骸骨のような到底うつくしいとは言えない容貌になっているにも拘らず「痩せていなければ美しくない」と考える拒食症の女性もまた同種の問題を抱えた女性と言えるだろう。
このように、なんらかの価値規範を墨守して望ましくない現実を直視しないことでより深刻化する問題を抱えることに関して、男性は抱えるが女性は抱えないといったことは無い。それぞれの問題は表面上は異なれども、男女が同じように抱える種類の問題なのである。記事にある弱者男性の内面化したジェンダー規範の問題もまた、ジェンダー規範が関係するために性差別が関係する問題と解釈されるが、それだけでなく性別に関係なく抱える現実との折り合い失敗問題のバリエーションの一つなのだ。
この問題に関して先にも触れたが、軽蔑すべきフェミニスト仕草がしばしば見られることがある。苦境にいる男性の考えや価値観から「当人自身の考えや価値観でそんな状況になっているのだから問題ないのでは?」と少なからぬフェミニストは言い出すのだ。
散々フェミニズム思想から「女性を苦しめる価値観を女性自身が内面化していることは社会が持つジェンダー差別構造に他ならない!」と大騒ぎして男性や社会を糾弾しまくっている自らの振舞を顧みることなく、「男性を苦しめる価値観を男性自身が内面化していることは社会が持つジェンダー差別構造ではない」と宣うのだ。ダブルスタンダードもなんのその、ジェンダー差別の被害者は女性限定という認識を堅持するのである。よくもまぁそんな恥知らずなジェンダー差別的主張が出来るもんだとフェミニストの厚顔無恥ぶりには呆れるほかないが、フェミニストにマトモな考え方を期待する方が間違いなのかもしれない。
それはともかく、当事者の状態が客観的判断基準からみて救済すべき状態にあるならば、それが現実との折り合い失敗問題に起因しようが何だろうが救済すべきである。そこに当事者の性別など関係が無い。
それは先に挙げた拒食症の女性の例において、現実との折り合いを欠いた「kg(キログラム)で表示される体重こそが美しさなの!」という価値観から自身の救済の必要性を彼女が否定しようが、社会として拒食症の女性に対する救済の必要性が否定されないことと同様である。
強制的に当人の意に反する直接的介入をするレベルの救済まで認めるかどうかはともかく、少なくとも社会の側からの説得・誘導・広報は為されるべきである。そのことは取りも直さず「それらの人間が社会としての救済対象にある」という認識を持つことに他ならない。それは、拒食症の女性の救済の場合であろうと、社会的弱者の男性の救済の場合であろうと何ら変わらないのだ。
ジェンダー規範に起因する「自身が救済対象であることを認めない」という現実との折り合い失敗問題が社会的弱者の問題として現れるとき、男性に顕著に現れる一方で女性はほぼ現れない。したがって、性別が異なることで現実において生物的性差に起因しない不利益が生じているので、この問題がジェンダー差別であることは明白だ。つまり、弱者男性問題の一側面である当人自身の内面化されたジェンダー規範によって福祉に繋がりにくいという問題は、旧来のジェンダー規範が齎す男性差別問題と言える。
しかし、フェミニズムが持つセクシズムの一つに、ジェンダー規範に起因する現実との折り合い失敗問題に対するジェンダー非対称な認識がある。すなわち、内面化したジェンダー規範によって生じた不利益に関して、不利益を被ったのが男性であれば当人の自己責任として女性であれば社会の責任とする、ジェンダー不平等でアンフェアなフェミニストの認識がある。このフェミニストの認識を含む日本社会全体でのジェンダー不平等な認識の問題については、note記事で何度か取り上げている(註3)。
さて、この節で問題とした「弱者男性自身の内面化されたジェンダー規範」に関する問題は大別して以下の2種類の問題がある。
ジェンダー規範により男性の社会的弱者が福祉に繋がりにくい問題
上記の問題が「男性当人の自己責任の問題」と片付けられてしまう問題
この男性の社会的弱者が直面している2種類の問題について、女性の社会的弱者は、女性が慈悲的女性差別を受けていたメリットとして上記の2種類の問題とは無縁であることが殆どだ。すなわち、社会に根強く蔓延っている慈悲的女性差別「女性=弱者=自由の制限ゆえに責任の負担も制限」という認識があるが故に、社会は女性の弱者を(男性と比較して)直ちに福祉に繋げ、女性の責任を(男性と比較して)問わないのである。
だが、そのような性差はジェンダー差別である。女性差別なのか男性差別なのか解釈は分かれるかもしれないが、ジェンダー差別である点には変わりない。
「弱者には社会が手を差し伸べるべき」というものは現代社会の倫理の一つであるのだから、客観的水準から判断して社会的弱者なのであれば、その社会的弱者が救済される男女比に偏りがあるのはジェンダー差別に他ならない。また、社会が社会的弱者にリーチできないバリア要因がジェンダー規範にあるとき、それもまたジェンダー差別である。さらに、当人の内面化したジェンダー規範によって社会が社会的弱者にリーチできないときに「男性には自己責任論、女性には社会責任論」を持ち出すのはジェンダー差別以外の何物でもない。
フェミニストは、女性不利で男性有利な男女比についてはジェンダー差別と大騒ぎするが、男性不利で女性有利な男女比については黙殺するどころか、それがジェンダー差別であることを強硬に否定することさえある。また、フェミニストは、女性不利で男性有利な形で機能するジェンダー規範についてはジェンダー差別と大騒ぎするが、男性不利で女性有利な形で機能するジェンダー規範については黙殺するどころか、それがジェンダー差別であることを強硬に否定するのだ。そして、女性については社会責任論を持ち出して現状を糾弾し、男性に対しては自己責任論からジェンダー差別的な現状を是認する。
まったくもってフェミニストはご都合主義のセクシストだ。
■弱者を巡る周囲の対応のジェンダー差
では次に、記事で取り上げられた社会的弱者を取り巻く周囲の対応のジェンダー差を見ていこう。
さて、この周囲の男女の対応の違いに関して、大抵の女性にとって自分が周囲から助けられることが余りにも当然であるために、大抵の男性は周囲からの助けの前に自助を要求されることが、どうにも想像できないようなのだ。この「大抵の男性は周囲からの助けの前に自助を要求されること」という男性を取り巻くマッチョイズムは、ジェンダー的平等の価値観から無くしていくべきと言えるものではあるのだが、現在の日本社会において男性を巡る周囲の対応は基本的にはマッチョさを要求するのである。
このことが典型的に現れている、X(旧Twitter)上で話題になったポストに掲載されたマンガから示そう。ただし、取り上げるポストは弱者男性に関するポストではなくトランス男性が受けた不適切な対応を批判するものである。とはいえ、このトランス男性にも自分がトランス男性と告知せずに男性扱いしないことに不満を持つという不適切さがある(註4)。その話題となったXのポストに掲載されたマンガとは以下である。
https://twitter.com/palettalk_/status/1664600286852419590
さて、ポストで取り上げられた対応は不適切なものであるのは言うまでもない。しかし、トランス男性が受けた不適切な対応は、たいていの男性とっては珍しくも無い周囲の対応であることから、如何に男性に対する周囲の通常の対応がマッチョで不適切であるのかを逆照射するという皮肉な結果となっている。
男性が迫られるマッチョな周囲の対応とは如何なるものか、トランス男性が遭遇した出来事を、以下のXのポストから見てみよう。
さて、このXに投稿されたマンガに対して男性からの多数のコメント、およびこのマンガに言及したポストが付いた。その一部を以下に示してみよう。
列挙したXのポストを見れば自明だと思うが、「大抵の男性は周囲からの助けの前に自助を要求されること」という男性を取り巻くマッチョイズムは、男性にとってあまりにも当然の周囲の対応なのだ。まさしく、トイアンナ氏が記事で取り上げたサライさん(仮名)が説明した男性を取り巻く周囲の対応そのままである。
さて、上記のマンガにおいて主人公のトランス男性が取った行動と周囲の対応は次のようなものだ。
先に列挙したこのマンガへの感想を述べたXのポストからも理解できるように、この主人公である元女性のトランス男性の「自助および周囲への訴えかけ」についての感覚と周囲の主人公への対応は、実に皮肉なことに「旧来の女性ジェンダーそのまま」の感覚と対応なのだ。
この主人公のトランス男性は、感覚が元の女性のままであるからこそ「周囲は自分の弱みに関する相談にキチンとのってくれる」と確信できるのであり、周囲もまた主人公のトランス男性を男性としてマッチョイズムに基づく対応を取ることなく女性として扱っているからこそ、主人公の弱みに対して誠実に対応し、これまでの接し方についての謝罪とこれからの気遣いをするのである。
この元女性のトランス男性の体験を描いたマンガは、トランスジェンダー問題だけでなく実に皮肉なことに「いかに男性を巡る周囲の対応がマッチョイズムに満ちていて弱者に対して過酷であるか」を明らかにし、同時に「女性を巡る周囲の対応がいかに弱者に対して親切で優しさに満ちたものであるか」を炙り出したのである。
フェミニストあるいは女性達はトランスジェンダー問題などについて、とりわけFtMのトランスジェンダー問題に熱心なことが多く元女性のトランス男性が抱える男性問題は女性問題の延長線上に物事を認識できるが、それはあくまでも元女性という女性のバリエーションの位置づけで認識するに過ぎない。男性と女性では周囲の対応の過酷さが全く違うことに関して、男性が当然のように直面している問題としては認識することができないのだ。元であっても女性が男性一般の直面する周囲の対応に遭遇すれば大騒ぎする一方で、男性が一般的に直面する周囲の対応に対して、それが如何に不当であるかとの男性側からの抗議を受けたとしても「男性一般が受けている周囲の対応は女性と同様のジェンダー平等な対応である」と認識するのである。
このことをよく示すトイアンナ氏の記事に付けられたコメントを引用しよう。
上記のコメントは「周囲に弱音を吐く」ことに関して女性と男性とを比較したときにどれほど女性が恵まれているかの自覚の無さをよく示している。もちろん、「弱音を吐くこと」は女性にとっても(男性ほどではないが)あまり褒められた行為ではない。なるべくなら弱音を吐くことなく頑張ることが女性にも推奨されている。だが、その推奨されるレベルが男女で隔絶しているからこそ、弱者男性問題という問題が発生しているのである。しかし、自助が求められる強さのジェンダー差に関して女性は、優遇されている側であるために不遇である側の実情にあまりにも無関心である。
因みにだが、「優遇されている側は不遇である側の実情にあまりにも無関心」となる心理機序は男女を問わない。
そして、そのことに関してフェミニストは男性に対して「優遇されている側は不遇である側の実情にあまりにも無関心」と男性特権に関する自覚の無さと女性の実情に対する無関心について常々男性を糾弾している。だが、いざ女性が優遇されている側になって男性が不遇となる側になる場合においては、女性の女性特権に対する自覚の無さと男性の実情に対する無関心についてフェミニストはダンマリで居るどころか、女性特権を否定し、男性の実情に対する抗議に対して非難することも多い。
真にフェミニストはご都合主義の卑怯者と言えるだろう。
■性別が男性である社会的弱者への社会の体制
社会の体制はその社会の意識が具現化したものである。したがって、「男性の弱者は自己責任とし、女性の弱者は社会の責任とする」というジェンダー非対称な意識は、社会体制のジェンダー非対称性として具現化している。それをよく示すものが、記事で提示された以下の事実である。
実に笑ってしまうほどのジェンダー格差である。実にあからさまな社会的弱者の男性に対する差別である。「女性の弱者は支援するが、男性の弱者には支援しない」という男性差別的社会体制が、男性支援団体0:女性支援団体4829という数値に表れている。もちろん、社会の上位層に関しては経済分野や政治分野のジェンダーギャップ指数が指し示すように、女性差別的社会体制といえる。だが、何度も私がnote記事で取り上げるように、社会の下位層に関しては男性差別的社会体制にある。
そして、基本的には弱者男性問題は社会の下位層において発生する問題である。そして、弱者男性問題に対する社会の取り組みの不備は、これまで取り上げてきたような意識や対応の違いといったソフト面だけでなく、支援団体の有無というハード面においても深刻である。
こういったことが男女の自殺率についてのジェンダーギャップとなっている。
ここでフランスについての面白い事実を示そう。これは取り上げるフィガロの記事本文の主張とは異なるが、記事が提示した事実は「通常の社会情勢における男性差別的状況」の傍証となるものなのだ。では見ていこう。
さて、上記のフィガロの記事において注目したいことは以下の事実だ。
女子の方が人に相談し、相談窓口などの支援を活用する
男子の方が自殺割合が高い
パンデミックの影響で、各種施設で窓口業務が休止
若年女子の自殺関連行動が急増する一方で若年男子はわずかな増加
記事の筆者であるMabion氏の主張においては、なぜかこの違いに注目していないが、自殺関連行動の増加に関して男女差が生じた理由は実に明確ではないか。パンデミックによって図らずも「相談窓口の利用を男女均等にする形で操作するとどうなるか」という社会実験をしたのと同様の効果が得られている。つまり、普段においては悩み相談窓口の利用率が高い若年女性は自殺率が低いが、相談窓口が利用できなくなったら自殺者が増えた。一方、普段から悩み相談窓口を利用していない若年男性は、相談窓口が利用できなくともあまり影響を受けない。この事実は悩み相談窓口の自殺防止効果を明らかにし、悩み相談窓口の利用率の高低が自殺率の高低に繋がっていることを明確にしたのだ。
パンデミックによる自殺率の変動の男女差は日本でも同様である。厚生労働省自殺対策推進室と警察庁生活安全局生活安全企画課が合同で作成した図からも確認してみよう。
自殺率は男女共に令和元年まで低下していたが、令和2年(=2020年)に女性の自殺が急増している。この2020年はコロナが発生してパニックになっていた年だ。様々な集まりが控えられて他人との接触もまた制限されていた時期である。つまりは、日本においてもこの時期は支援団体による支援も通常の場合とは異なって制限を受けていた時期といえるだろう。
男性の支援団体は驚異の0団体なので、パンデミックで他人との接触が制限されようが影響は無かっただろう。一方で女性の支援団体は4829団体もある。つまり、1724市町村+23特別区の基礎自治体毎に女性支援団体は単純計算で約2~3団体あるということだ。2020年はパンデミックでロックダウンしていたのだからそれらの支援団体もまた外部との接触は制限されている。さぞかし女性の社会的弱者は通常年とは異なる状況にあっただろう。ところが、男性の社会的弱者にとってはそれがデフォルトである。何といっても男性の支援団体はゼロであるからだ。このことは当節で取り上げたトイアンナ氏の記事の引用文中の「福祉に頼ることができたみさこさんですら、支援団体のような『助けてくれるグループ』からの支援は言及しなかった」にある通り、男性の社会的弱者の状況をよく示している。
相談窓口の利用率が高い・支援団体が数多く存在する女性にとっては、相談が制限されたならば自殺が増える。だが、相談窓口の利用率が低い・支援団体が存在しない男性は、相談が制限されようが自殺数は大して変化しない。
パンデミックが明らかにしたハード面からの男性の社会的弱者に対するジェンダー差別の状況である。まぁ、この因果関係は厳密な科学的推論ではないが、男性支援団体0団体:女性支援団体4829団体という支援団体数の驚異の男女差は文句の付けようのない社会の体制における男性差別である。
このような事実が提示されてさえ、男性の社会的弱者を取り上げた記事に対して、ミソジニーやインセルがどうのこうのいった次元の話をするフェミニストが居ることは、彼女らフェミニストの認知がいかに歪んでいるかの証左であるだろう。
註
註1 もちろん、「男性自殺者の二人に一人はもし彼が女性であれば自殺していなかったであろうとマクロ的には言い得る状況」というのは逆に男性自殺者が女性であっても二人に一人は自殺している状況とも言える。
註2 以前に取り上げた弱者男性問題をミソジニー問題と認識しているフェミニストを批判した記事は以下である。ただし、以下の記事の全編にわたって当該批判を繰り広げているわけではない。
註3 内面化したジェンダー規範によって生じた不利益に関して不利益を被ったのが男性であれば当人の自己責任として女性であれば社会の責任とするジェンダー不平等な認識の問題を中心に取り上げた私のnote記事としては以下の記事がある。
註4 マンガのトランス男性が自分がトランス男性と告知せずに男性扱いしないことに不満を持つという不適切さが判明するのは以下の箇所である。
下段のコマにおける理不尽さが読み取れるだろうか。トランスジェンダーの人間の「泣くほど辛かった体験」という当該マンガの文脈からくる解釈枠組みが「悪者=男性上司、イノセントな被害者=バイトのトランス男性」であるから気づきにくいかもしれないが、フラットな目線で事情を見てみるとマンガの事態は以下のようなものだ。
このトランス男性の理不尽さを譬え話で示してみよう。
しばしば遅刻早退を繰り返す部下に対して「君は時間にルーズだ。シッカリしてくれよ」と上司が叱責している途中に「いま配偶者が療養中なので私が子供の保育園の送り迎えをしているんです。配慮してください」と事前相談もなく部下の事情をイキナリ知らされた上司が「親ならちゃんとしろよ」と嫌味を言った。そしてそれに対して、部下が別の部署の元上司に対して「あの人は子育て中の人間に対する配慮がありません」と告げ口するようなものだ。
もちろん、この譬え話の事態においても上司は嫌味を言わない方が良いのは当然であり、育児への配慮をすることが望ましいのは言うまでもない。だが、この部下はイノセントだろうか?
周囲に配慮を要求するのであればそれは事前相談すべきものではないか?
事前相談も無く叱責を受けるような事態になってから「配慮を受けるべき事情」を告知して「周囲は察してくれず配慮が足りない!」と不平不満を撒き散らすのは、あまりにも理不尽ではないか。
マンガにおけるトランス男性の事例も同様で、トランスジェンダーであることへの配慮をバイト先の上司に求めるのであれば、それは事前相談すべき話であって、叱責の最中に言い訳のように告知するものではないと思われる。
ここで注意を促しておくが、「事前相談し難い状況や雰囲気」を男性上司が出していたのことも事実である。したがって「事前相談し難い状況や雰囲気」というものはトランスジェンダーの人間にとって敵対的環境であることは間違いがない。
このことを今回の弱者男性問題に倣って考えると、弱者男性が弱音を吐きにくい環境が男性差別的環境であるのと同様に、トランスジェンダーの人間が事情を相談しにくい環境もまたトランスジェンダー差別的環境である。したがって、このトランス男性が体験したような環境は、弱者男性が体験している環境と同様に、改善していく必要がある。
とはいえ、ここでフェミニストを含めた女性のご都合主義的な傾向がある。このマンガに登場するトランス男性を擁護するのは女性の方が男性よりも多いようだ。しかし、「事情を言い出し難い雰囲気を出す上司が悪いでしょ!それがトランス差別よ」と考えた女性は、弱者男性問題に対して一転して「事情を言い出し難い雰囲気を出す周囲が悪いでしょ!それが男性差別よ」とは考えない印象がある。
まぁ、フェミニストや女性達のご都合主義はともかくとして、事情を告白し難い環境下において不利益を被った人間が告白できなかったとしても、その告白できなかった物事の全責任を告白できなかった人間に負わせることは不当である。しかし、一方で、告白されなかった周囲が告白されなかった為に適切に対応できなかった事の全責任を周囲が負う事もまた不当であるといえるだろう。