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"まなざし"とフェミニストの「モテないだろう」との批判

 もともとは牛角の女性半額キャンペーンの炎上騒動についての以下の記事を批判するnote記事を書いていた。しかし、キャンペーン擁護側にしばしば登場する「お前、モテないだろう」との批判についての考察が少々長くなってしまった。また、当該炎上騒動への批判としては大きく脱線してしまっているので、独立した記事とすることにした。

■議論における人格攻撃(属人論証)は詭弁である

 さて、牛角の女性半額キャンペーンを巡って批判側と擁護側の論争が繰り広げられている。当然ながら同キャンペーン擁護側は批判側に対する反論を行っている。そんな様子を当該記事では紹介している。その際に、取り上げるキャンペーン擁護側のキャンペーン批判側に対する反論に関して、記事の表題にもあるように批判側への人格攻撃をマトモな反論であるかのように紹介している。該当箇所を以下に引用しよう。

「女性の友人や恋人誘って行けばいいのでは」「たかだか2000円程度の差額でみっともない」「もともと女性の方が食べる量は少ないんだから」「私企業の販促活動はその企業の自由」「男性だけ値上げなら怒るのも分かるが、男性は料金据え置きなので問題ない」「『彼女誘おう』ではなく『男性差別だ』と発想する思考だからモテないんだ」「騒いでいるのは彼女も家族もいない独り身では」など。

【「牛角」炎上】男性同士も“意見対立” なぜ…
「誘う彼女いないのか」「男女平等に反する」どちらに共感?
LASISA編集部 2024.9.4 LASISA 

 見ての通り、紹介されたキャンペーン擁護側の反論として挙げられた事例の半数以上が人格攻撃である。議論を少し先取りするのだが、この手の批判者への人格攻撃は、属人論証とも呼ばれ、議論においては詭弁の一種である。詭弁なのだから当然、それはマトモな議論ではない。それにもかかわらず、当該記事においては同キャンペーンを巡り議論におけるマトモな意見のように紹介されている。LASISA編集部の見識を疑うばかりである。

 キャンペーン擁護側は、「モテない」「恋人・異性の友人・家族が居ない」「みっともない」といった批判で、議論相手である人間が未熟な人間であるかのような印象を生じさせ、相手の主張の議論内容に触れることなく、相手の主張の説得力を失わせている。だが、当然ながら「モテる・モテない」「恋人・異性の友人・家族の有無」「みっともない」といった批判者の人格に属する話は、牛角の女性半額キャンペーンが男女平等の理念に反するか否かとは全く関係が無い。

 議論内容と論理的に関係がない事から何かを結論付けようとする議論は、詭弁と呼ばれるものだ。詭弁には論理的な関係が存在しないのだから、論理的な関係から妥当な結論を導き出そうとする議論という営為において、詭弁による議論結果が妥当なものになるはずがない。したがって、「詭弁」は議論において非難の対象となるのだ。

 そして、議論において論じられている内容と議論をしている論者の事情は、大抵の場合には独立しているため、お互いの間に論理的な関係が基本的には存在しない。そのため、議論において相手の人格を攻撃する属人論証は大抵の場合に詭弁となる。ただし、例外的に議論内容と論者の事情が密接に関係しあう議論もある。つまり、全ての場合において論者の事情を批判することが詭弁になるわけではないが、属人論証は大抵の場合に詭弁となり、詭弁とならない場合は例外であると理解しておく必要がある。

 もちろん、今回のキャンペーンにおける男女平等の理念に反するかどうかの議論においては、論者の「モテる・モテない」「恋人・異性の友人・家族の有無」「みっともない」といった属人的要素は、その議論内容とは一切の論理的な関係が存在しない。したがって、LASISA編集部が当該記事で紹介した、キャンペーン擁護側の反論の半数以上を占める人格攻撃(属人論証)は詭弁であり、それを用いた議論によって妥当な結論が導出されることを期待することはできない。


■「モテる・モテない」は"まなざし"を前提にしている

 議論において、この手の人格攻撃を反論として出してくる人間に対しては「バカじゃなかろうか?」という感想しか抱けない。

 とりわけ、ジェンダー論界隈では女性擁護側がマトモに反論できなくなると「おまえ、モテないだろ」と捨て台詞を吐く三下論客を頻繁に見かける。フィクションでやられ役の雑魚がケチョンケチョンにやられて「覚えていやがれ!」と捨て台詞を吐いて逃げ去る様によく似ている。議論をモテの問題に還元しようとする行為は、議論能力の欠如を示してソイツの雑魚っぷりを際立たせる。夕焼け空とカラスの鳴き声をバックにすると非常に似合いそうな様式美さえ感じる。それにしても、議論をモテの問題に還元しようとしている人間は、男女問わず下半身でしかモノを考えていないんだろうか?

 もちろん、本稿の批判対象記事で紹介されている論争においては、キャンペーン批判側も擁護側も男性論客ではある。しかし、今回取り上げた炎上問題に限らず、ジェンダー問題関連の議論をモテの問題に還元しようとするのは男女を問わない。むしろ、女性論客の方が多く感じる程だ。

 そして、フェミニストと名乗る女性論客が反論に詰まったとき「お前、非モテだろう?」と言い出すのを見るとき、「コイツの中ではどんだけ異性から求められることに価値を置いているんだろうか?」と不思議に感じざるを得ない。

 更に言えば、モテる・モテないという評価軸は「異性にとっての客体としての価値」を用いた評価軸である。その評価軸の価値はフェミニストがひと昔前にギャオォォオンと喚きたてていた「異性を客体化する"まなざし"を前提とする価値」である。すなわち、他者の行為を"モテ"という価値に還元することは、他者の主体性を無視して「その他者が異性からどう見られているか」によって価値付けることだ。それはまさしく"まなざし"による客体化そのものである。

 しかし、フェミニストは散々に男性に対して「女性を男性は主体として扱わず、"男性のまなざし"によって客体化・道具化しようとする!」と非難してきた。"まなざし"による客体化はフェミニズム的価値観からすると非難すべき行為であったハズである。

 ところが、フェミニストは男性との議論に負けそうになると「おまえ、モテないだろう!」と頻繁に言い出す。つまり、フェミニストは議論相手の男性を"まなざし"によって客体化し、あくまでも女性にとっての男性の価値である"モテ"という、男性の主体性から離れた客体化された価値に還元しようとするのだ。

 フェミニストの倫理観はどうなっているのか?

 フェミニストの女性は、自分が異性を"まなざす"ことがデフォルトであるから、自分のデフォルトの行為を男性に投影して「アイツら男性は、女性を"まなざし"でもって客体化して、女性の主体性を認めない!」と主張しているのではないかとの、疑念が生じる。

 もちろん、「おまえ、モテないだろう!」と言い出すのは、女性擁護側に立つ男性にもよく見られる行為である。男性の議論においてモテを意識して女性側に立って議論を行うときの仕草は、ネットミームでは「それは男が悪いね。じゃあ、○れるね」との台詞を言っている"チン騎士"仕草である。女性の"まなざし"を内面化し、それを逆利用している様が風刺として描かれている。また、マッチョイズムを信奉する男性も議論に負けそうになると「おまえ、モテないだろう!」と言い出す。彼らもまた、女性の"まなざし"を内面化している。

 それゆえ、他人に"まなざし"を向けることに関して、どちらか一方の性別に限定されていないと言えるだろう。そして、"まなざし"は向ける側と向けられる側に関して、性別はもちろんのこと主義・主張そして立場も関係の無いと言っていいだろう。つまり、男女はお互いが"まなざし"を向け合い、そして異性の"まなざし"を内面化している。そして、男女共にその異性の"まなざし"を逆利用することさえあるのだ。

 私個人は、そんな"まなざし"に関して是非を論じることに意味があるとは思わない。

 しかし、「"まなざし"は悪である」と断じているフェミニストは自らが男性に"まなざし"を向けていることについて、フェミニスト自身が信奉している倫理観によって反省すべきではないだろうか?


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