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フェミニズム思考による言葉狩りの姿勢の問題点

 フェミニズム思考による言葉狩りに関する以下の記事が出た。もちろん、不快表現・不適切表現というものはあるだろうし、「これからこの言葉は用いるべきではないのではないか」という判断自体は問題ではない。だが、男女でほぼ対になる表現があったとしても「女性に関する言葉」は問題視しても「男性に関する言葉」は問題視しないというジェンダー差のある姿勢こそが問題なのだ。今回のnote記事では、批判対象の記事を取り上げながら、そのことをテーマにしていきたい。


■「才色兼備」が女言葉なら「文武両道」は男言葉

 さて、直接的にターゲットになった言葉は、表題にあるように「才色兼備」である。この才色兼備が如何なる形で問題視されているか記事を引用しよう。

 校閲の仕事で一つの指標になるのが、共同通信社が発行している「記者ハンドブック」です。
 同社のHPには《一般企業の企画・広報担当者からWEBライターまで、文章を書くすべての人にお薦めする日本語用字用語集の決定版》とあるように、記事の書き方から、紛らわしい地名・会社名なども載っていて頼りになる一冊。
 2022年3月に6年ぶりの改訂がなされ、第14版が登場しましたが、注目すべき大きな変更点は「ジェンダー平等への配慮」の項目ができたことです。

「才色兼備」は女性だけに使われる不適切表現?
タダ美 2023/09/10 コクハク

 上記にあるように、『記者ハンドブック』で「才色兼備」が問題視されている。すなわち、一般企業の企画・広報担当者からWEBライターといった、(作家や詩人といった文芸の芸術家としてではない)職業として文章を書く人間が参照すべきハンドブックで問題になったのだ。

 ただし、先にも断っているように「『才色兼備』が不適切表現である」という判断自体は問題ではない。「才色兼備」の言葉の意味である「すぐれた才能と美しい容姿の両方をもっていること(新明解四字熟語辞典)」に関して、「美しい容姿」が主に女性に求められる価値であり、それゆえに「才色兼備」が主に女性に対して使われる言葉となっているため、ジェンダー差別的な不適切表現なのだと判断すること自体は、それはそれで一つの立場である。

 つまり、「『AとBの両方が優れている』という事態を表現する言葉に関して、価値Bに優れていることに対して一方のジェンダーの方が他方のジェンダーよりも求められていることが多い場合、その言葉は不適切表現とする」というジェンダー中立的な判断基準に則って「才色兼備」が問題視されるのであれば、何もおかしなことはない。換言すると、「才色兼備」が女性に対して負荷のある不適切表現なのだとしたと同様の理屈で、価値Bが主に一方の性別に対して求められているというジェンダー規範があるがゆえに「AとBの両方が優れていること」を意味する四字熟語は不適切表現なのだとする判断が、ジェンダー差が無く為されるならば問題が無い。すなわち、価値Bは主に男性に対して求められているというジェンダー規範があった場合に「AとBの両方が優れている」とする四字熟語は不適切表現であるとしているのかどうかという話なのだ。

 例えば、「文武両道」の四字熟語は「学芸と武道の意。また、その両方にすぐれていること(新明解四字熟語辞典)」を意味する。当然ながら「武道」は主に男性が修める事を称揚された価値である。したがって、本来の用法として「学芸と武道の双方に優れた男性」を称賛する四字熟語となる。つまり、「文武両道」という四字熟語は「才色兼備」の四字熟語と同様、「価値Aと価値Bの両方が優れていること」を称賛する四字熟語であり、そして、称賛される二つの価値のうち、一方の価値に関しては男女のジェンダーで価値が異なる価値である。それゆえ「才色兼備」を問題視するのであれば「文武両道」もまた問題視するのが、ジェンダー的正義に適う公平な振舞といえる。

 しかし、今回問題となっている「才色兼備」を含め「(ジェンダー平等への配慮からの)不適切表現」が問題となるとき、問題視した言葉と対概念になっている言葉に対して、ジェンダー的正義に適う振舞をフェミニスト達が行っているとは言い難い。もちろん、理念としては以下のようにジェンダー中立的な形で謳っている。

第14版では、前出の「ジェンダー平等への配慮」内で《女性や男性を殊更に強調、特別扱いする不適切表現》と説明されています。

同上

 ところが運用面からみたとき、「女性に対するジェンダー的負荷が掛かる表現」を問題視するほどには「男性に対するジェンダー的負荷が掛かる表現」を問題視していない。今回の批判対象としたタダ美氏の記事のように、「男性に対するジェンダー的負荷が掛かる表現」など形式上だけの空疎な概念として登場し、具体的な内容を伴う概念として認識されていない。

 「『ジェンダー平等への配慮』内で《女性や男性を殊更に強調、特別扱いする不適切表現》」というテーマで議論しているとき、女性に対するジェンダー的負荷の掛かる具体的な不適切表現を例示して、殊更に女性差別を訴えかける。しかしその際に、具体例として挙げた女性に対する不適切表現と対になり得るような、具体的な男性に対するジェンダー的負荷の掛かる不適切表現への内省の構えが一切感じられない。

 この旧弊のジェンダー役割に基づく女性の負担は問題視しても、同様の男性の負担に関しては「そんなものは無い!」とする認識枠組みこそが、フェミニズム思考が持つ性差別的側面なのだ。

 女性に対するジェンダー的負荷に対しては大騒ぎする癖に、男性に対するジェンダー的負荷に対しては、まるで透明な空気のように存在を認識しないその姿勢こそが、日本社会のジェンダー問題を取り上げる記事に通底するセクシズムである。


■二つの評価軸で人を同時に称賛する表現と両立への評価

 「文武両道」と「才色兼備」の言葉に関して、前者はジェンダー差別的表現ではないとする一方で後者はジェンダー差別的表現だとするのは、男女どちらであっても「勉強もスポーツも優れていて素晴らしい」と同時に称賛することは一般的に認められているが、「才能も容姿も優れていて素晴らしい」と同時に称賛することは女性に対しては認められていても男性に対しては認められていない、という認識があるからである。

 この「同時に称賛すること」の構造を考えるために、「文武両道」と「才色兼備」の構造を抽象化して、「文武両道」と「才色兼備」は何をメインに称賛しているのかを考察してみよう。

 さて「文武両道」と「才色兼備」との称賛は、前節でも触れたが、抽象化すれば

「Aに優れる&Bに優れる」という事態

で為される称賛である。そしてこの「文武両道」と「才色兼備」の2つの称賛は以下の3つの価値を称賛している。

  1. Aに優れること

  2. Bに優れること

  3. AとBが同時に優れること

 つまり、単純な「1.の事態」と「2.の事態」への称賛を一纏めにして表現したものではないのだ。すなわち、両立が難しい「3.の事態」についての称賛を含んだものが、「文武両道」と「才色兼備」という称賛なのである。

 このことに関してイマイチ理解できない人がいるかもしれない。そこでMLBで活躍している大谷翔平選手を具体例に出して「3.の事態」の称賛について説明しよう。いま、大谷選手は靭帯損傷によって今期の大記録の達成に関して危ぶまれている(そんな今期の記録なんかよりも選手生命のほうが大事だと私は思う)が、怪我以前(まぁ、今後もそうである可能性が高い)に彼を称賛する際に登場した言葉は「二刀流」である。すなわち、大谷選手は以下の3点において偉大であるのだ。

  1. ピッチャーとして一流であること

  2. バッターとして一流であること

  3. ピッチャーとバッターとして同時に一流であること

 そして、大谷選手を「ベーブルース以来の1世紀に1人の選手」と言わしめているのは、3.の事態である。つまり、ピッチャーとして大谷選手と同じぐらいの成績をおさめるピッチャーは存在しており、バッターとして大谷選手と同じくらいの成績をおさめるバッターも存在しているとはいえ、同一の選手がそうであるという事態は極めて珍しいがゆえに、大谷選手は高く評価されているのである。そして、大谷選手は、ピッチャーに専念しても、バッターに専念しても、成功するだけの実力があるにも拘らず、より困難な「二刀流」という方向で努力をし、また、その二つに関する巨大な才能を持っているところが凄いのである。

 以上から明確になったと思うが、「文武両道」と「才色兼備」という称賛は、「文」や「武」、あるいは「才」や「色」という個々の価値を評価しているだけでなく、両立困難な二つの価値を同時に達成しているがゆえに評価されているのである。


■「立身出世」と「スクールカースト」の観点からメタ評価する

 二つの価値を同時に達成するという両立困難性を考えるに先立って「立身出世」と「スクールカースト」の観点から「文武両道」と「才色兼備」に登場する評価軸をメタ評価してみよう。

 それではまず、「文武両道」と「才色兼備」に登場する評価軸について抜き出してみる。

「文武両道」:文芸の評価軸・武芸の評価軸
「才色兼備」:才能の評価軸・容色の評価軸

 ここで簡便化のために、武芸については現代的解釈のもと「スポーツ」の評価軸とし、文武両道に登場する文芸と才色兼備に登場する才能については「勉学」の評価軸にまとめてしまおう(もちろん、通常「才色兼備」の「才」は芸術などの才能を指す場合もあり、勉学といった狭い意味ではない。単に議論の簡便化の為に"勉学"と狭く解釈する)。すると、以下の3つの評価軸で考えることができる。

  • 勉学ができる

  • スポーツができる

  • 容色に優れる

 上記の3つの評価軸について、「立身出世」と「スクールカースト」という観点でメタ評価してみよう。

 まず、「勉学ができること」について考えよう。

 勉学ができることは、2000年以降の現代日本における学校文化・社会文化の中で「スクールカースト」「立身出世」における勉学の価値はジェンダーによって左程違いは生じない。また、勉学という価値は一部の天才を除いて努力によって高められる(とはいえ天才も努力することが多い)。つまり、勉強するというのは社会的地位の獲得手段として男女を問わない手段であると言えよう。また、勉学ができることは立身出世という観点からの方がより重要であるとはいえ、スクールカーストという観点でもそれなりに有利である。

 つぎに、「スポーツができること」について考えよう。

 スポーツができることは、「スクールカースト」という観点から非常に重要であるとはいえ、「立身出世」という観点でもそれなりに有利である。それというのも「立身出世」の観点では、進学においてスポーツ推薦という進路もある上に、プロスポーツや実業団の道に進まずとも学生スポーツで成績を残せば「ガッツがある」「チームワークを理解している」「やるべき努力ができる」という精神面で評価されることに加えて「体力がある」といった肉体面の評価によって就職等で有利になるからである。ただし大半の女性が男性にとっての「スポーツができること」の影響を軽視していると断言できるのだが、「立身出世」や「スクールカースト」の観点における「スポーツができる」という評価軸の重要性に関してはジェンダー差が大きい。とりわけ「スクールカースト」におけるジェンダー差に関して男女は隔絶しているとさえ言えよう。

 最後に、「容色に優れること」を考えよう。

 容色に優れることに関して、ルッキズムが問題視される際に「女性問題」としてイメージされることからも明白なよう、ジェンダー差が存在している。就職だけでなく女性の容色が強く影響する女性の上昇婚も含めた「立身出世(=より高い社会階層への帰属)」の観点からも、「スクールカースト」の観点からも「容色に優れること」は女性にとって重要となっている。一方、男性に関しては容色に優れることは、異性にモテることを通して「スクールカースト」の観点からは有利に働くこともあるが、「立身出世」の観点からはモデルやアイドルになれる程飛び抜けて優れているのでない限り、そこまで重要性を持たない。

 以上、「勉学ができること」「スポーツができること」「容色に優れること」について、「立身出世」と「スクールカースト」の観点からその重要性を見てきた。次節において、それらの観点からの重要性がどのように両立困難性と関わってくるかを考察しよう。


■「文武両道/才色兼備」における両立困難性

 前節で考察した構造を前提として「文武両道」と「才色兼備」という言葉が称賛する両立困難性について考えていこう。このとき、二つの価値を追求するリソースの配分上の困難性に由来する両立困難性を問題とするのではなく、努力するモチベーションの面から見た両立困難性の観点から考察する。

 さて、「立身出世」と「スクールカースト」がどのような視点から統一的に把握することができるかに関してまず明確にしよう。

 学生にとって「スクールカースト」は現在の(学生文化という文脈での)社会的地位に関するものであり、「立身出世」は未来の社会的地位に関するものである。また、社会人にとっては「スクールカースト」は過去の(学生文化という文脈での)社会的地位に関するものであり、「立身出世」は現在ないしは未来の社会的地位に関するものである。つまり、時間軸は違えどどちらも社会的地位に関するものである。

 この社会的地位は自尊感情と結びつき、大抵の人間はその獲得を目指して努力する。つまり、モチベーションの源泉の一つと言えるのだ。

 ただし、「勉学」「スポーツ」への努力によって社会的地位が向上する時間軸は基本的には学生時代となる。すなわち、社会人になってから泥縄的に勉強したとて(ましてやスポーツに励んだとて)社会的地位が劇的に向上するのは例外的なケースと言えよう。ただし、知識階級に属すことができたならば社会人になってからの勉強であっても威信向上に結び付く。とはいえ、知識階級に属することができるかどうかは、学生時代の「勉学」への努力に大きく依存するだろう。

 さて、「文武両道」と「才色兼備」に関して、モチベーションの観点からの両立困難性を見ていくにあたって、スポーツ優秀な男子学生と容姿端麗な女子学生のケースを検討することで、この両立困難性の構造を明らかにしよう。

 アメリカ社会における学校文化において、スポーツ優秀な男子学生はジョック(Jock)と呼ばれるスクールカーストでトップ層の地位に属することになる。また、容姿端麗な女子学生はクイーン・ビー(Queen Bee)と呼ばれ、これまたスクールカーストでトップ層の地位に属する。ただし、当然ながらアメリカの学校文化と日本の学校文化は異なるため、アメリカのJock概念が日本のスポーツ優秀な男子学生に完全に当てはまるわけではないし、アメリカのQueen Bee概念が日本の容姿端麗な女子学生に完全に当てはまるわけではない。しかし、アメリカ的な特色を除いてスポーツ優秀な男子学生と容姿端麗な女子学生のスクールカースト上の地位は日米で類似している。すなわち、日本の学校文化においても、スポーツ優秀な男子学生と容姿端麗な女子学生はスクールカースト上においてトップ層に属するのだ。

 したがって、彼・彼女らは、それぞれスポーツ優秀であること・容色に優れることによって、現在の社会的地位が齎す自尊感情については充足されている。さらに、将来の社会的地位が齎すであろう自尊感情に関しても、スポーツ優秀な男子学生はそれなりに、容姿端麗な女子学生はかなり充足される可能性が高い。

 つまり、彼・彼女らは学生時代という限定的な時期において現状に満足できるような状態にあるのだ。このような状況下に置かれたとき、現在の自分の社会的地位を支えているものとは別の「勉学」の分野でもトップに至ろうと努力するのは、モチベーションの面からなかなかに難しい。人を努力に駆り立てるハングリー精神という形式のモチベーションが湧かないからだ。

 もちろん、スポーツが優秀であることは飛び抜けているのでもない限り将来の社会的地位を保証しないので、将来の社会的地位により直接的に繋がる「勉学」に勤しむことはあるだろう。また、容色に優れることによって将来の社会的地位を向上させるということは、大抵の場合に異性に引っ張り上げてもらう形で向上させることになるので、他者に借りをつくることになる。そこで自力ではない他力による社会的地位の向上を望まない場合は「勉学」に勤しむだろう。あるいは、そういった功利的理由によるモチベーションではなく、「もっと自分を高めたい」という単純な向上心からモチベートされる場合もある。

 とはいえ、漠然とした将来に備えることや、必要に迫られているわけでもない向上心で、「勉学に勤しむ」というのは中々に難しい。このモチベーションに関する構造が、スポーツ優秀な男子学生の「文武両道」や容姿端麗な女子学生の「才色兼備」に関するモチベーション面から見た両立困難性なのである。

 すなわち、ハングリー精神を持てない状況下で努力することの難しさというのがモチベーション面から見た両立困難性なのである。言い換えると、状況に甘えることなく努力する、あるいは将来を見通して努力するといった自分に対する厳しさを持ち合わせていないと「文武両道」や「才色兼備」を達成することは難しいのだ。

 それゆえ、「男子学生が文武両道を達成」あるいは「女子学生が才色兼備を達成」したとき、単に「文と武」あるいは「才と色」の二つの水準の高さを単純にまとめて称賛しているのではなく、二つの水準の高さだけでなく「自分に対する厳しさをもって達成」したことを称賛しているのである。

 また、社会人に対して「文武両道」や「才色兼備」と称賛する場合もま
た、現在の二つの水準の高さだけでなく、彼・彼女らがかつて発揮した自分に対する厳しさを称賛しているのである。


■ルッキズム(外見至上主義)とスポーティズム(スポーツ至上主義)

 フェミニズムが市民権を得て「フェミニズムがジェンダー的正義の思想である」といった風潮が全世界的に生じてきている。そして、フェミニスト達が女性を巡るルッキズム問題に関して散々槍玉に挙げたため、ジェンダー正義に反する形での影響をルッキズムが女性に及ぼしてきたことに関する権威を持った社会通念が形成されていると言ってよい。さらに、ルッキズムによる弊害を批判した言説は数多く存在しているので、ルッキズムが何であるか、どういう状況において現れるかについて、かなり明確になっているといえよう。それゆえ、学生時代に女子学生がどのような形でルッキズムに晒されるかに関しても、社会的な了解があるといっていいだろう。

 一方で、男子学生が学生時代に晒される「女子学生へのルッキズム」に相応するような価値観に対して、権威を持った社会通念は形成されているだろうか?

 すなわち、男子学生が学生時代に晒される「スポーツができる・できないが、スポーツとは関係のない個人の威信にまで影響する」という「スポーティズム=スポーツ至上主義(※私の造語)」の価値観による男性へのジェンダー差別についてどれだけの権威ある社会的な共通理解があるだろうか。

 もちろん、通俗的な共通理解として「小学生時代は足の速い子やドッジボールが上手い男の子が人気者になる」「人気のある種目や大会成績の良い運動部でレギュラーを取った男子学生の威信が高い」というものはある。逆に「運動音痴な男子学生は無視されがちになる」「筋力が弱く足の遅い男子学生は威信が低くなる」といったものも、通俗的な形では共通理解がある。また、アメリカの学校社会において形成されているスクールカーストにおいて、前述のジョック(Jock)がトップ層に居るというのは、日本人においてもさして新規性のある知識でもない。そして、これらのスポーツ至上主義的価値観に、女子学生は男子学生ほどには晒されていないことについても、通俗的な共通理解がある。

 だが、それらの男子学生に関する通俗的な共通認識は、ルッキズム(=外見至上主義)が女性へのジェンダー差別と結びついているという権威ある社会的共通理解と比較して、そのジェンダー差別的な性質との関連性に関してどれほど認識されているだろうか。

 このことに関して、権威ある論者の公的見解として広く一般的に主張されるところに私は遭遇したことが無い。ひょっとしたら、目立たない学術雑誌の論文で「スポーティズム=スポーツ至上主義」のジェンダー差別的性質に関する研究結果が発表されているのかもしれないが、一般大衆の目に触れやすい啓蒙記事に登場しているのは寡聞にして知らない。

 そういった状況は、フェミニスト達が「フェミニストにあらずんばジェンダー論を語るべからず。ジェンダー論を正当に論じる資格はフェミニストにあり」と言わんばかりの態度でいることで生じているものだろう。フェミニスト達が頻繁に主張する「男女平等・男女同権に賛同するならば、アナタはフェミニストです」との言説は、フェミニズムから外れた言説を男女平等・男女同権の言説と認めない主張を含んでいる。

 ちょっと話が横道に逸れてしまうのだが、この包含関係をベン図で示そう。

 「男女平等・男女同権に賛同するならば、アナタはフェミニストです」との言説が指し示す包含関係に関して、上記のベン図で考えれば集合Aと集合Bを以下のように考えているのだ。

集合A:男女平等・男女同権論者
集合B:フェミニスト

 そして、この包含関係においては「フェミニストでないならば男女平等論者・男女同権論者ではない」ということが論理的な帰結として出てきてしまう。

 フェミニスト達が頻繁に主張する「男女平等・男女同権に賛同するならば、アナタはフェミニストです」という言説における認識は、ベン図をみれば明らかなように、その対偶をとれば「フェミニストでないならば男女平等論者・男女同権論者ではない」という認識なのである。

 このフェミニストの奇妙な認識がフェミニズムをやたらと持ち上げる世間の風潮と合わさって、「フェミニズムだけがジェンダー的正義を規定しているので、フェミニズムに基づかない言説はジェンダー的正義とは無関係な社会問題なのだ」という現代の日本社会の認識を生んでいるのではないだろうか。

 議論を元に戻そう。

 女子学生が学生時代に晒される「外見に優れる・優れないが、外見とは関係のない個人の威信にまで影響する」という「ルッキズム=外見至上主義」の価値観による女性へのジェンダー差別については、フェミニスト達の盛んな言論活動によって、現代の日本においては権威ある社会の共通理解となっていると思われる。そして、その一つの成果が「才色兼備」の表現を不適切表現であるとして、排除していく動きであると言えよう。

 一方で、男子学生が学生時代に晒される「スポーツができる・できないが、スポーツとは関係のない個人の威信にまで影響する」という「スポーティズム=スポーツ至上主義」の価値観による男性へのジェンダー差別については、男性へのジェンダー差別など大して興味関心がないフェミニストが「(男女を問わない)ジェンダー的正義」に関する社会的権威を握りしめているために、「フェミニズム思考の範囲外=ジェンダー的正義の範囲外」という奇妙な図式に乗っかって、現代の日本社会におけるジェンダー差別問題として認識されないのだろう。


■女性限定の「才色兼備」と男女共用の「文武両道」の違い

 「才色兼備」も「文武両道」もモチベーション面からみた両立困難性の構造は類似している。つまり、容姿端麗な女性に関しては容姿端麗であることでチヤホヤされるためにスポイルされて学生時代に勉学で努力することが難しくなり、スポーツ優秀な男性に関しても学生時代においてスポーツ優秀であることでチヤホヤされるためにスポイルされて学生時代に勉学で努力することが難しくなる。つまり、そういうスポイルされがちな環境に打ち勝つ「自分に対する厳しさ」が無ければ、「才色兼備」「文武両道」のどちらであっても達成できない。

 ここで注意すべきことは、チヤホヤされる理由となる美点に関して男女のジェンダーで異なる点である

 そして、批判対象の記事にあるよう、「才色兼備」の表現を問題視するにあたって「女性は容色でチヤホヤされる」という点を挙げるのであれば、「男性はスポーツ優秀であることでチヤホヤされる」にも関わらず勉学で頑張ったことを評価する「文武両道」の表現もまた問題視しないのは公平さに悖る。

 価値がジェンダーで異なる評価軸を問題視するのであれば、「才色兼備」も「文武両道」もどちらも不適切表現なのだ。その点に関しては、どのような言い逃れもできない。

 一方で、「才色兼備」に関しては主に女性に対して用いられる称賛表現だが、「文武両道」は男性だけでなく女性に対しても用いられる事実がある。この事実から「文武両道」の表現はジェンダー差別的な不適切表現ではないと主張するフェミニストがいるかもしれない。

 そこでこの節では、「文武両道」が女性に対しても称賛表現となる構造を考察することによって、「文武両道」をジェンダー差別的表現ではないとする、有り得るフェミニストの主張に対して予防的に反論しておくことにしよう。

 さて、先述の通り、「文武両道」の表現も「才色兼備」の表現も「文や武」あるいは「才や色」といった2つの評価軸から見た評価の水準が各々高いことを単純に一纏めにして称賛する表現ではない。両立しがたい二つの価値について同時に高い水準で達成しているという「両立困難性」を克服していることも併せて称賛している表現なのである。

 この両立困難性に関してだが、これまでは「モチベーション面からみた両立困難性」を取り上げてきたが、最初に断ってあるよう、「リソース配分の困難性に由来する両立困難性」もある。つまり、時間や体力あるいは精神力といった限りあるリソースを2つに分けて効率的に使用し、二つの評価軸の評価を各々向上させることの難しさもまた、両立困難性といえる。したがって、その難しいリソース配分を適切に熟して2つの評価軸の評価を向上させるパフォーマンスは、十分に称賛に値しよう。

 この時間や体力や精神力といったリソースに関しては男女で差異が無いため、このリソース配分の適切性を称賛することに関してはジェンダー差別的とはならない。それゆえ、男女で共通する「リソース配分の困難性に由来する両立困難性」を克服したから「文武両道」は男女で適切に使用できる称賛表現なのだとする考えが生まれる。一般化すると、男女に共通する「リソース配分の困難性に由来する両立困難性」を克服したことへの称賛表現であるならば、その称賛表現は不適切表現とならないという考え方である。

 さて、ここで「文武両道」と「才色兼備」に登場する評価軸を振り返ろう。前述のとおり以下の三点である。

  • 勉学ができる

  • スポーツができる

  • 容色に優れる

 この三点に関して、評価を向上させるリソースの投入量を考察してみよう。

 勉学やスポーツができることに関してリソースが必要なのは言うまでもない。だが問題は「容色に優れる」ことのリソース投入の有無である。容色に優れることに関してリソースの投入が必要ないのであれば、そこにリソース配分の困難性は存在しない。しかし、容色に優れることに関してリソースの投入が必要なのであれば、そこにリソース配分の困難性が生じ得る。もちろん、他分野にリソースを投入しなければならないものがあったとしても、容色を向上させるために必要なリソースの投入量が些少であって、他分野へのリソースの投入にとって障害になりえない程度の量なのであれば、そこに両立困難性が存在するとは言えなくなる。

 果たして、「容色に優れる=美しくある事」の維持あるいは向上に関して、リソースの投入が必要なかったり、必要リソースが些少であるという認識は正しいのだろうか?私を含めた男性達が何気なく見聞きする「女性の美への努力」は、とんだ見せかけで、さして大変でもない事を大袈裟に言い立てて、みなの同情を買うためやコミュニケーションのネタの一つとしてオーバーに騒いでいるだけの話なのだろうか?もしそうであるならば、世の中の男性達は女性達に盛大に騙されていることになる。

 もちろん、そんなことはあるまい。「容色に優れる=美しくある事」の維持あるいは向上には、少なくない「努力=リソース」の投入が必要不可欠であるだろう。

 そうであるならば、「勉学ができる」と「容色に優れる」との間にもリソース配分の困難性は存在しているはずである。すなわち、「才色兼備」の表現によって称賛される事態に関しても、「文武両道」との表現で称賛される事態と同様に、リソース配分の困難性に由来する両立困難性を克服して「才と色」を両立させているのだ。

 したがって、「『文武両道』に関してはリソース配分の困難性に由来する両立困難性を克服していることを称賛するものだから、たとえ『武=スポーツ』に関しては男性のジェンダーに負荷が掛かっている価値であっても、その両立困難性を称えることは問題ない」とする理屈がOKであるならば、「『才色兼備』についてもリソース配分の困難性に由来する両立困難性を克服していることを称賛するものだから、たとえ『容色』に関しては女性のジェンダーに負荷が掛かっている価値であっても、その両立困難性を称えることは問題ない」とする理屈もまたOKとなるはずである。

 つまり、「文武両道」が不適切表現でないならば「才色兼備」もまた不適切表現ではなく、「才色兼備」が不適切表現なら「文武両道」も不適切表現なのである。「いやいや、そんなことないもん。『才色兼備』はダメだけど『文武両道』はいいんだもん!」とフェミニストが主張するのであれば、それは単に女性に対するジェンダー規範だけが社会問題なのであり、男性に対するジェンダー規範の問題は問題にするに値しない、というセクシズムに他ならない。

 フェミニスト達は、彼女らが槍玉にあげる「女性のジェンダーが関係する言葉」と同様の構造をもつ「男性のジェンダーが関係する言葉」に対してあまりにも無頓着である。

 そして、そのことは男性側に対してフェミニストが常々要求する、「異性に関してはどうなんだろうか?」という意識の構えが、フェミニスト自身には存在していないことを示している。また、「異性に関してはどうなんだろうか?」という意識の構えが無い男性をセクシストと糾弾する、まさにその理屈において、フェミニストはセクシストであると言えるのだ。


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